鈴木謙介/Suzuki Kensuke インタビュー
2008.02.15
その他|OTHERS

鈴木謙介/Suzuki Kensuke インタビュー

国際大学グローバルコミュニケーションセンター研究員

■ナナロク世代はいつも挟間の時期にいました

出身は、福岡市内です。18歳で東京に出るまで市内から出たことがないので、ほんとに博多っ子ですね。

福岡は、80年代まではミュージシャンが多い街と言われていましたけど、90年代以降は、モデルさんとか女優さんが多いんですよ。田中麗奈ちゃんとか、蒼井優ちゃんとか。ミュージシャンは椎名林檎くらい。ファッション的には、90年代の後半から世の中のコギャルブームに反して、大変な不思議ちゃんブームでした。ルーズソックスを売っている店がほとんどなかったんですよ。

『CUTiE(キューティ)』などのイメージで、手作りで服を作るとか、そういう女の子がすごく多かった。地方対中央の図式が崩れ、女性誌で、いわゆる「ファッション五大都市対決」みたいなのが出てくる流れのはしりだったと思います。

その80年代と90年代後半に挟まれた時代が、僕の思春期なんです。東京よりもちょっとファッションが進んでいる一方、昔ながらの芸能チックな空気も残っている。たぶん今の(僕の)、無意味に目立ちたがりのところなんか、そのころに形成されたんだと思います。

小学生の頃から、周りと全く話が合わなかったです。子どもが好きなものって、嫌いだったんですよ。もちろん『少年ジャンプ』黄金期でしたから漫画も読んでましたけど、夢中になるかというとそうでもない。音楽も、いわゆる歌謡曲は全く聞かず、洋楽中心でした。うちの父が昔ジャズミュージシャンをやっていたので、邦楽はくだらないと聞かせてもらわなかったんです。45年生まれで、タモリさんと同年代の博多の人。スタンダードからモダンに行く時代を知っている世代なので、洋楽かクラシックなんですね。もちろん僕はよくわかってなくて、父の車のカセットからビリー・ジョエルをひっぱり出してきたり、アルトゥール・ルービンシュタインとか聞いてみたりしていました。

世代的にも、世の中の音楽が、洋楽から邦楽に切り替わる時期に挟まっていましたね。僕ぐらいまでが洋楽が偉かった時代。弟は79年生まれですが、彼らが高校に上がる頃から邦楽が偉くなってきた。文化祭でコピーするバンドがだんだん変わってくる時代でしたね。

小学校を卒業するのが89年で、ちょうどバブルがはじける頃でした。まさに株が暴落して、ソ連、東欧が崩壊するのを見てるんですけど、そういう変わり目にそんなにショックは受けませんでした。

ただ、時代の変わり目を意識して、世の中のことを考えなくちゃ、って思ったんでしょうね。小学5年生の夏休みの自由課題で「ソ連の改革について」、4年生の時は文化人類学とか民俗学が流行っていたので「日本人はどこから来たのか」論みたいなのをやりました。特に興味があったというわけじゃないけど、周りの子がやってるものよりは面白いと思えたんでしょうね。でも後々民俗学を専攻するまで、そのことはすっかり忘れていました。

友だちと話は合わないんですけど、おしゃべりなんでずーっとしゃべってて、「うるさいから黙ってろ」といつも言われてました。成績も全然よくなくて、先生も問題児として見てたでしょうね。

中学に入ると、よく自転車で博多の街をふらふらしました、学校サボって(笑)。小学校高学年の時、数少ない友だちで自転車ツーリングを企画した奴がいて、自転車で遠出するのが好きになったんですね。街中に行って、ふらーっとして、路地にすわったり、本屋行ったり。今ほど厳しくなかったので、補導員というものにも会いませんでした。

僕が通っていた学校は、ニュータウンの子と、元からの地元の子が両方いて、カルチャーギャップはあっても、深刻に荒れるとかはなかったですね。時代は管理教育から、それが終わっていくちょうど真ん中くらいでした。中学から高校にかけて、神戸校門圧死事件の影響で、管理教育が見直されて、体罰が問題になる時期でした。

こうやって、いつも挟間の時期にいましたね。自分の前にあったものと、自分の後に出て来たものについてはよく覚えているんだけど、自分が通ってきたところは、すっぽりと無風状態にあった。「ナナロク世代」といわれる子たちとしゃべっていると、「前とも後とも感覚全然違うよね」とよく言うんですけど、そういう時代状況もあるのかもしれないですね。すくなくとも95年までは、大きなことが起こったという印象がない。ちょうどナナロク世代は、大学に入る年と、地下鉄サリン事件阪神淡路大震災が全部いっぺんに来るので。そこから見え方が変わったという人は多いですね。被災地の上空からの映像を見ながら、Z会の問題集を解いていたりしたので、みんなある種の無力感を抱えていたと思います。ただ僕の場合、それでも「以前」と「以後」のように、ものごとを二項対立で見るくせがあるんですが、それは世代的に培われたものでしょうね。

■博多のエンターテインメント、そして演劇

うちの親戚はみんな、市内の進学校から早稲田、というコースをたどっているんですが、ぼくと弟の2人だけが早稲田に行かなかった。母が高校の教師で、演劇部の顧問をずっとしていたので、他校の演劇部の先生とのつながりもあって、進学したら当然演劇やるだろうと期待されていました。それで主体性もなくふらっと芝居の方に流れ、高校3年間は演劇とバンドに費やすことになりました。全く勉強してません。1ミリたりとも。

博多華丸さんや、劇団新感線いのうえひでのりさん、「ビー・バップ・ハイスクール」きうちかずひろさんとかがいた学校なんですけど、毎年福岡吉本にお笑いで入って進路不明になるやつが何人かいましたね。進学校であると同時に、何かおもしろいことをやって目立ちたい、という不良が多い学校でした。

そういう学校の演劇部だったので、芝居というより、今で言うとお笑いの空気に近いものがありました。小劇場ブームもまだ残っていたので、体を使って面白いことをやろうみたいな芝居が多かったです。

福岡はエンターテインメントの空気があるという話をしましたけど、今の僕を作っている1点目が育った土地だとすると、2点目にあるのはこの演劇部です。そこで発声練習をしていなかったら、今ラジオの仕事はできていないですね。声大きくてナンボ、の世界ですから。自分で脚本を書いたり、主演もしたり、結構いろんなことやりましたよ。

高校生の演劇の大会があるんですが、そういうところで偉い先生に「高校生なのにこんなにできてすごい」というほめられ方をするのは大嫌いでした。常にプロとして評価されたいと思っていた。なので、高校1年の時から、なんとかお金をかき集めて会場を借りて、公演を打ったりしていました。その頃から、今もずっとそうですけど、お金にならないものはやってもしょうがないと思ってるんです。

そんな感じで高校時代はずっと演劇をしていたので、大学もその方面を考えていました。鴻上尚史さんがすごく好きだったので、早稲田に入って演劇をやろうと。ところが見事に早稲田の一文に落ちまして。地元の先輩で劇団をやっていた人が進学した国学院には受かったので、1年この街で浪人して、くさって芝居のまねごとしてるくらいだったら、さっさと東京行ってちゃんとしたことやりたいと思って、博多を出ました。

それで国学院の演劇サークルに入るわけですが、困ったことに、以前そのサークルの先輩何人かと地元で芝居をやったことがあり、そのときの僕の、横柄かつデカい態度が相当気に食わなかったらしく、入って3日くらいで「やめてくれ」とクビになりまして(笑)。周りの人は、そんなの関係ないから、と言ってくれたんだけど、それを押してまでというのもなんかなあ、と思って辞めたんです。それで1年くらいは外の劇団で活動したり、脚本を書いたりしていたんですが挫折し、それと入れ替わりのように、社会学がやってくるわけです。

「男子の部活のノリですね」とTBS
ラジオ「文化系トークラジオ〜Life」
のプロデューサー長谷川裕さん(左)
■挫折し、持て余していたところで出会った宮台真司

そのきっかけは、師匠の宮台真司さんです。95年のオウムと震災を経て、ちょうど彼が脚光を浴びてくるときで、新聞やテレビで活動や発言を見てこれは面白いと思った。目標からコースを外れて完全に持て余し、ありがちな「自分はこんなところでくすぶってる人間じゃないのに」という状態だったので、その自尊心を満たすのに、知的リソースというのは大変有用でした。

宮台さんには、イベントに行った時に「ゼミに出たいんですが」と声をかけたら、いつでも来いよ、と言ってくれて。当時彼のゼミは学外生が多くて、積極的に発言してもいい空気があったんですね。僕はそういうところで積極的に発言する方なので、べらべら喋っていたら面白がってくれて。それ以来ですね、先生とは。

そこから社会学の道に入りましたが、通っていた大学では民俗学を専攻していました。国学院は筑波と並んで民俗学が強い大学なんです。もともと柳田国男がいたところですから。そこで現代社会のことをやろうと思うと、民俗学が一番近かった。時代的にも、80年代に大月隆寛さんや大塚英志さんが出てきて、現代社会を扱う民俗学というのをやってもいい時期だったんですね。

卒論の指導教官も、倉石忠彦さんという都市民俗学の権威で、現代社会のフィールドワークとして、不思議ちゃんを原宿にインタビューしに行ったり、コミケに行ってオタクの女の子に話を聞いたりしていました。だからマーケティング的なことは、わりとその頃から関心がありましたね。「アクロス」も読んでいましたし「定点観測」の写真を見ながら、マーケターの人たちは、どういう女の子を「イマ」だと思って撮っているのか、というようなことを勉強するのに使わせていただきました

それと同時に、20歳くらいの頃、宮台さん関連のイベントで、音楽業界の人と知り合うきっかけができたんです。僕が男子校出で、体育会系なので、パシらされたり、打ち上げを仕切ったり。それで「お前おもしろいから来いよ」みたいにライブとか、飲みの席とかに呼んでもらっていたんです。そこでは、そのときブレイクしているというより、10年20年音楽業界でやってきて、これからどうやって芸能界で生きていくか、というような世代の方たちが多かった。それで、エンターテインメントの世界も華々しいだけじゃない、長い人生をどう生きるかが大事だ、というようなことを考えるようになりました。僕は隅っこでお酒作ったりしていただけですけど、そういうものを感じ取ったというか。

こんなふうに大学に行かずに、音楽や芸能関係の方とお話しするような場に恵まれながら、勉強もしていた。だから、僕を作った3点目と4点目がこれなんです。学問と、エンターテインメントの世界ですね。

大学院ですが、これも宮台先生のいた都立大(現首都大学)には落ち、法政大学の大学院に入りました。そこで2年間修士をやって、宮台さんと付き合っているだけでは見えてこない、ちゃんとした社会学のメソッドも勉強し(笑)、やっと博士過程で首都大に入ったわけです。どんな人生でしょうね。ことごとく受験に落ちてるんですよ。

修士課程のとき、のちに『〈反転〉するグローバリゼーション』につながるような、硬いことをやりつつ、音楽やったり、学費を稼ぐためバイトしたりしていました。

博士過程の1年の時に、インプレスというウェブのメディアに勤めていた、かつてのゼミの先輩から、そこで連載をしてみないかと言われたんです。その頃から自分のホームページではいろいろ書いていて、それが面白いからと。それで物書きの仕事が始まったのが25歳で、最初の本を出したのが、26歳です。

そこからは物書き人生です。2004年からは国際大学GLOCOMという今の職場に勤めるので、研究員という肩書がつきましたが。院生じゃなくなると世の中の人も仕事を頼みやすくなるようで、わりと仕事の幅が広がってきた、というのがこの5、6年ですね。GLOCOMでは、いわゆる研究所の仕事をやってます。クライアントからリサーチの依頼も来るし、硬い仕事してますよ。
■ベンチャー起業の発想は大嫌い

書き物仕事の影響で、インターネットの専門家だと思われることが多いんですけど、ここまでのライフヒストリー聞いてもらってわかるように、どこにもインターネットという単語は出てきていません(笑)。昔からパソコン少年だった、とかいうのでは全くないんです。

中学に上がる頃にFM-TOWNSが出て、CD-ROMがマルチメディアだと言われていた時代ですから、まだマイクロソフトも弱くて、一太郎や花子が主流でした。だから持っている子もいたけど、僕は全くスルーで、大学2、3年まではほとんどパソコンに触ってません。自分のマシンを買うのは大学4年のとき。買ってすぐ、自分のホームページを立ち上げました。98年頃ですね。

そうか、5個目というのがあった。修士のとき、IT関係の企業で働く機会があったということですね。最初はパソコン屋とかで普通に働いてたんですけど、もうちょっと面白そうなものを探して、IT企業に入ったんです。3日でやめた会社もありましたが、修士の終わりくらいから博士の頭くらいまで働いていた会社がわりと長続きして、そのあと入った会社も3年くらい働きました。今も堅実に経営を続けている会社です。雰囲気もとてもよかったので、本を出していなかったら、冗談抜きでその会社に就職していたと思います。

自分自身は、起業というのは全く考えませんでした。『カーニヴァル化する社会』のあとがきにも書いたんですけど、渋谷のマンションの一室で仕事をして、「このバブルもアメリカに次いで絶対に1年以内に崩れるから、今のうちに企業価値を高めて売り抜けるしかない、そして35歳過ぎたら引退して、そのお金で楽に暮らそうぜ」みたいなことを言われて。その生き方についていくのは、すっごい嫌だったんです。なぜ今そこまでがんばって、あとで楽しようとか思うんだって。

あと、無駄に「ビジネス」ってことを強調するじゃないですか。僕も基本的にビジネスにするというのは大前提だと思っているけど、面白いことをやりたいからお金にする、というのが僕の発想。でもベンチャーは、お金にするというのが先にあって、面白くするのは後で考えようとか、あるいは面白くなくてもいいや、という空気があって、ちょっとスタート地点が違うな、というイメージがありました。

もちろんすべてのベンチャーがそうだというわけではなくて、例えば今まさに活躍されている、はてなの近藤社長とか、面白いことをするためにビジネスの世界に身を置く人もいらっしゃる。今でこそそういう人が生き残っているけど、当時の風潮は全然そうじゃなかった。目論見書に「IT」と書いてあれば、どんな企業でも渋谷のど真ん中にワンフロア借りられたし。その風潮は、合わなかったですね。
■表現的な欲求を満たすのが、市場の言葉になってきている

もともと世の中全部のことに興味があるんですね。子供のころは、世間のことを調べてうんちくをたれていて、高校で、演劇や音楽、あるいは詩、小説など自分で表現するという手段を手に入れた。そこにある種の快楽を見出していたんだけれど、90年代の後半から、世の中の価値というものが共通性を失ってきて、文芸的な言葉というのはすごく廃れてくるんですよね。

感覚的、感性的なものを司るのは、ドライな、社会学的な、もっといえばマーケティング的な言説だったりしたと思うんですよ。そこに、わりと魅力を感じました。文学の言葉で、自分の言葉を好いてくれそうな人にだけ届けるのではない広げ方が、社会なり市場の言葉にはある、というのがすごく面白かった。その動機付けは、社会のことを表現したい、という表現的な欲求なんです。

僕の本も学者の本だからちゃんとしたことが書いてあるだろうと思って読むと、すごく感覚的な言葉が並んでいる。表現的な欲求でものを書いているんだけど、言語のあらわれ方は、「表現」にしちゃうと好きな人にしか通じない。そうじゃない言葉でやりたいんです。

これは社会学というフィールドには大変都合がいいんです。おそらく社会学で、戦後影響力を与えた方2人あげろというと、小室直樹さんと、見田宗介さんだと思いますが、小室さんは、ドライに社会の言葉を語るんだけど、ご本人が過剰に表現的な人なので、みんながキャラクターで見てしまう。三田さんはものすごく感性的な人なので、統計の数字などを使って説明をしても、数字がかすんでしまうくらいすごいマジカルで、感覚的。そういう人たちを輩出してきた学問なので、感覚に依拠しながら、社会の言葉で書ける。いわば、マーケターマイナス商品とか、マーケターマイナス市場、みたいなものですね。

最近、「『カーニヴァル化する社会』がインターネットの本だと思ってる人が多くて困りますよね」という読者の方がいました。彼は人生についての本だと思っているんですね。編集者とか、同世代の人でも、そういうふうに読んでくださる方が多いです。今を表現する批評的な言語で、感覚的に読むものだと。それがいいことかどうかはわかりませんが。

自分の仕事をいろいろな幅でやるようになって、「そうそう、それわかる」というような形でコミュニケートできる人が増えて来ました。たとえば『搾取される若者 達バイク便ライダーは見た!』の阿部真大君だったり、『不安型ナショナリズムの時代』の高原基彰君だったり。ふたりともこの4,5年で宮台真司を読んだと言っていましたから、全然違うルートからいろいろな物を蓄積して、同じようなポジションに達している人はたくさんいると思うんですよ。僕は僕で蓄積してきたものがあって、横でコラボレーションしたり、上の世代とお話する中で改めて教えていただいたり、下の世代の子たちの話からヒントを得たり、ということを常にやっています。
■その時間、そこにいることに意味がある

「文化系トークラジオ Life」は、そろそろ1年半です。プロデューサーの長谷川さんからお話をいただいて、パーソナリティーを始めました。コメントを読むのがうまいとか言われますけど、高校時代演劇やっていたから、噛むわけにいかない。がんばりましたよ(笑)。

昔ながらの深夜放送はこうだったんだよ、というのを思い起こさせるような番組ですね。若い人は初めて聞くかもしれない。リスナーと語りあっている感じです。

来るメールは、真剣なのかネタなのか、ギリギリのものが結構ありますね。番組の内容が内容なんで、めちゃくちゃ長いのが多いんですよ。A4で2枚とか書いてくる。ブログに近いですね。人に向かって表現したことがあるわけじゃないんだけど、やっと聞いてくれる人ができた、ということなのでしょうか。表現の場になっているのかもしれない。

炎上、というか批判みたいなのもいっぱい来ますよ。でもそれも込みでしょう。それを無視するかといえば、結構積極的に拾ってます。

「Life」を始めて若返りましたね。世の中ではこれが当たり前だと思っている"生き方(ライフ)"じゃないものに気づく。物事の本当の意味を、考えさせられます。それはリスナーも同じで、「仕事辞めました」っていうメール、たまに来るんですよ。世の中に誠実であろうとすればするほど、仕事辞めていったりして、それはまずいなと思いますけど。でもそういう捉え返し、リフレクションがある番組だなと思います。

ちょっとメディアっぽいことを言うと、今メディアに欠けてるものは何だろうって考えると、相手がいるかいないか分からない不安感だと思うんですよ

携帯にしてもメールにしても、どこに届くかは間違いなく確定されている。でも、ラブレターだったら、相手のお母さんが封を開けて先に読むかもしれない。そういった本当に届いたかわからない、あるいはそもそも届ける先があるのか分からないメディアはどんどん減ってると思います。以前なら、伝言ダイアルなりインターネットなり、誰に届くか分からないメディアがあったけど、いまではケータイメールのように、向こうに誰がいるのかがはっきりしていることの方が多いですよね。

ラジオは、原理的に相手がいるかどうかわからないメディアなんです。そこに誰かいますか、って呼びかけないと、そもそも話が成立しない。こっちが呼びかけて、リスナーから「お前の言ってることは間違ってる」とメールが来るというのは、全くもって正しいことなんですよ。君がアクションしたことは届いてる、と僕らが言ってあげないと、音声メディアをやっている意味がない。

相手に本当に届くかどうかわからないけど呼びかけるメディアというのは、今ではおそらくラジオくらいです。もしかしたら今の若い人たちは、届かないかもしれない、ということに意味を見出しているんじゃないかな、という感じをちょっと持っています。届くか届かないか分からないけど、とりあえず投げてみる。初発は一方通行だけど、回り出したらちゃんとキャッチボールになる、そういう感じが、今必要とされてるメディアなのかな、と思うんです。

2007年は共著も含めて4冊の本を出しました。こんなにたくさん本を出すようになったのは、間違いなくラジオのおかげです。基本的に整理してものを考えるのは苦手で、しゃべることによって考えがまとまるんですよ。今も次の企画の本を書かなきゃいけないんですけど、おとといの放送でしゃべったことのほうが面白そうだから、そっちを書きたいなとか、次から次へと出てくる。ラジオに影響されるというより、肉体化していますね。自分がそこにいる、その時間そこにすわって何かしゃべっているということに、一番意味がある。それってなんなんだろうと思いますが。

あらかじめ用意した原稿を読んでいるわけではないので、言いたかったことが言えなかった、というのがある一方で、言いすぎてしまって「イカン、誤解されてしまったかも」と落ち込むこともあります。それも全部含めて、コミュニケーションの中に自分がいると自覚することが重要ですね。

内容のある話、高度な話をしたかったら、すごく頭のいい人と2時間くらいイベントで対談すればいいと思うんですよ。それを手直しして本とかにすればいい。「Life」にそういう高度さは求めていなし、僕の頭では無理なので、別のことをしたいんです。
TBSラジオ「文化系トークラジオ 〜Life」の番組HP
 ■入り口は全部違うけど実は同じ、というものを書きたい

堪え性がなくて、2週間くらいで書けるものじゃないと、忘れちゃうんですよ、何を書こうとしていたか。行き当たりばったりにいろんなテーマに手を出しているように見えると思うんですけど、その通りなんです(笑)。

なぜこんなに幅の広い仕事をしているかというと、最後まで読むと一緒なんだけど、入口が全部違う、というのをやりたくて。読み終わってみないとつながってることがわからないのが難点ですが。わりとそういう物語的な展開が好きなんです。単純に「わかりやすい」っていうのとは違う書き方をしたい。

作家というのは2パターンあって、ひとつは自分の根源的な動機付けを、手を変え品を変え書き続けるという人で、たとえばミステリーが書きたいなら、常に殺人事件が起きる、でもトリックがみんな違う。一方、ミステリーもSFも純文学も書くけれど、全部同じトリックで、同じことが書いてある、というパターンもあると思う。僕は後者の方をやりたいんです。その同じ何かというのは、口で言いたくはないですが、今はパズルのピースをいろいろなところにばらまいているところですね。

属性がつかめない、とよく言われます。こういうのが好きな人は、これも好きだろう、みたいに想定されるのが大嫌いなんです。例えば、マーケティングの本を出しました、そうするとチャーリーはもうお金儲けばっかりでぼくたちのことを見捨てたんだ、と思ってたら半年後にすごくディープな若者論を出すかもしれなくて。これができるってことは、これはできないだろう、みたいな他人の思いこみを全部裏切りたいんです。ある人が思っている「チャーリーはこんな奴」っていうのとはまったく違う僕に対するイメージを持っている人もいて、その噛み合わなさも込みで面白いじゃないですか。そういうキャラでいたいですね。

チャーリーの由来は……墓まで持っていくということになっているので(笑)。

大学時代からなんですけどね。きっかけはどうでもよくて、そういうふうにスッと呼んでもらえる自分ではいたいなと。恥ずかしくないのか、とよく言われるんですけど、特に恥ずかしくないです。本名の方がずっと恥ずかしいです。

番組でも最初に言ったんですけど、「この番組ではチャーリーと呼んでくれ」と。なぜかというと、僕は社会学者の鈴木謙介としてうんちくを垂れ流す気は全くないんです。チャーリーというキャラで行きたいと思っていましたから。

仕事で東アジアをたくさん回るようになって、今自分が享受しているこういう環境は、日本だけの特殊なことではない、ということを実感しています。中国でも韓国でも、職がなくて世を呪いながらも、どうにか楽しいことを見つけて生きていこうと、ネットで盛り上がったりしている。そういう同世代の、世界中のスーツを着ない連中と話していると、日本の状況と同じことがたくさん見えてくるんですよ。

自分のプロジェクトのひとつである「グローバル化」というのも、世界をよくしたいというのではなく、たぶん、旅先とか出張先で出会った、スーツを着ない同世代と話す道具が欲しい、ということのような気がするんですよね。

日本の若者も、客観的に見ると狭い世界に生きているようにみえるかもしれないけど、どこかに向かうベクトルを持っているのだとすれば、重要なのはそれにかなう適切な道を見つけられるかどうか、というそれだけのことだと思うんです。それは誰かが先頭に立って実践するしかないでしょう。僕は先頭じゃないけど、まあそこそこに走っていきますよ。



[取材日:2008年1月29日(火)16:00-18:00@TBS本社内(赤坂)/インタビュー・文:神谷巻尾(フリーエディター)]

□2月28日(木)鈴木謙介さん・しまおまほさん・辛酸なめ子さんトークイベント

<文化系書店Life堂vol.3@池袋 開催記念>
『恋と三十路と文化系 〜さまよえるオトナ女子のためのLife堂的ボヘミアンナイト」

・2月28日(木)に、リブロ東池袋店にて「鈴木謙介さん・しまおまほさん・辛
酸なめ子さんトークイベント」が開催されます。

・日時:2月28日(木)午後7時〜
・場所:リブロ東池袋店 「カフェ・リブロ」

・参加費:2,000円(ワンドリンク付) 定員60名
・お問合せ:03-5954-7730
※お電話でのご予約承っております。
※トークショーは整理券、ご予約のお控え等、お渡ししておりません。
キャンセルされる場合は必ずご連絡くださいますようお願い申し上げます。

□文化系トークラジオ〜Life、次回は3月9日(日)25:30〜28:00放送予定

ブックフェアLife堂 vol.3 「池袋文化祭」

・3月10日まで池袋の3つの書店とコラボし、ブックフェアLife堂 vol.3 「池袋文化祭」を開催中。
それぞれ異なったコンセプトで、Lifeパーソナリティ陣と書店員がセレクトした選書を並べ、トークイベントも開催しています。また今回もフェア限定の特製パンフレットを配布しています。ぜひお越しください。

詳細はこちらをご覧下さい↓
http://www.tbsradio.jp/life/2008/02/post_52.html


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