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2011.01.20
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TSUDA DAISUKE/津田大介さん

“デジタルメディアがどう社会を変えていくのか”という興味が僕の原点です

2010年は、ツイッターフェースブックといったSNS、そしてユーストリームニコニコ動画といった動画共有サービスなどの新しいメディアのプラットフォームが一般化するなど、メディア環境が大きく変化した1年だった。

2011年最初のWhos whoに 登場いただいた津田大介さんは、そういったソーシャルメディアの力をいち早く着目し、ネットメディアだけでなくテレビ、ラジオなどの既存メディアにも登場 するようになったメディアジャーナリストのひとりである。彼のその独特の存在感の原点がどのへんにあるのかを、パーソナル・ヒストリーとともに伺った。


2010年はゼロ年代の終焉を実感した年でした

ツイッターやユーストリームといったソーシャルメディアも含めて、2010年というのはいろんなものが大きく動いた年、という実感があります。個人的には、最悪だった「ゼロ年代」というディケイドが終わって、新しい10(テン)年代が来たんだなと思っています。

僕にとっては、99年に独立してからずっと模索を続けてきた10年間でした。ベースにあるものは全然ブレていないつもりなんですが、個人的に生き残ることはできたけど、それ以上にやりたいことを成果として結果を出すことが難しい時代だった。それが今ようやく、社会にかぎ爪をかけられるようになってきたという感じですね。


07年くらいまでの感覚では、ネットで個人のやることが大きなムーブメントになっていくということは、なかなか起きませんでした。しかし例えば、非実在青少年の問題でも、6月に都条例の施行が延期されたことには、ネットの力が大きな役割を果たしました。大元のきっかけを作ったという意味で僕の参加しているMIAU(インターネットユーザー協会 http://miau.jp/の果たした役割も大きかったと思います。
 
そういうネット世論の盛り上がりをドライブするものとしてツイッターが上手く機能したんです。僕のようにあまり後先考えず動く人間にとっては、すごくやりやすい時代になったと思いますし、こうした社会を変えようという動きに、個人として賛同する人が孤独感を感じることなくついて来られるようになった。いい 時代になってきましたよね
 
ユーストリーム(UST)が広がったのも2010年に入ってからです。ユーストとツイッターがきっかけで、音楽家が自分の新しいメディアを持てるようになったことは大きいと思います。例えば、まつきあゆむwww.myspace.com/matsukiayumu)」がネットで音源を直接販売することで、彼はほぼ専業の音楽家として喰っていけるようになった。七尾旅人が始めたwebサービス「DIY STARS(diy.tunk.jp/)もそうですね。
 
ほかにもいろんなミュージシャンやアーティストが、ソーシャルメディアを使って新しい回路を作ろうとしています。ミュージシャンにとって、ライブでは意外に、お客さんがどう思っているのかは分からないものなんです。それがUSTやニコ動の中継だと、タイムラインに「ここのギターのフレーズにこう反応するのか」という感じでお客さんの反応が可視化される。これって凄いな、と感じるらしいですね。

日本にはこれまで、アメリカ型のソーシャルメディアがなかったんです。本当の意味でのソーシャルメディア、つまり、“意思があって行動ができる人間が社会を変えていくムーブメントを作れるようなメディア”に、いまツイッターやユーストリームはなりつつあると思います。

音楽好きの、どちらかというと内向的な子どもでした 

出身は東京の北区滝野川というところで、父と母、妹の4人家族です。父と母はそれぞれ地方から出てきて東京で知り合いました。母は公務員———大学職員で、父は団体職員。一時期は国会議員の秘書もやっていました。両親とも仕事をしていたので、鍵っ子でしたね。

高校までは一番近い公立の小学校、中学校、都立高校と進みました。うちの近所は、僕の小学校くらいまではヤンキーカルチャーが残っていて、滝野川連合という暴走族の集会場がウチの前、という環境でした。それも僕が中学生になる頃にはずいぶん落ち着いていましたよ。

僕自身はどちらかというと内向的な子供でした。小学校2年くらいからピアノ教室に通っていて、中学は吹奏楽部に入って、となんらかの形ではずっと音楽には関わっていましたね。

高校で僕は割と解放されたというか、高校デビューみたいなところがあるんです。都立北園高校という、府立9中という元ナンバースクールの伝統ある学校でし た。校風が自由で、制服もなくて、校則もなし。都立校の中でも特にリベラルな高校で、教師もリベラルな人ばかりでした。

高校ではいろんな部活をやっていました。まずハーモニカ研究部というマイナーな部に入って、これはドラムやベースと一緒にハーモニカを演奏するんですが、僕はベースを弾いてました。中学から高校入学にかけて、88〜89年がバンドブーム全盛で、イカ天も始まった頃です。高校では部活に入っていない奴も趣味でバンドやってブルーハーツジュンスカBOOWYとかをコピーする、というような時代でしたね。バンドは今でも続けています。
2010年12月20日のMIAU(インターネットユーザー協会)3周年記念パーティで行われた田原総一郎さん(ジャーナリスト)との対談を、ニコニコ生放送でネット配信。2010年には『クローズアップ現代』(NHK)、『フジテレビ時評』(フジテレビ系)など、津田さんは地上波にも登場している。
ライターを志した原点は高校時代 



あとは新聞部。中3の時に文章の書き方が何となく分かるようになって、文章を書くのって楽しいなあ、と思うようになっていた頃でした。いっしょの学年で入ったのが僕と友だちの2人だけだったので、2年になったら自動的に僕が部長で友だちが副部長(笑)。

学校新聞は、ちゃんとした新聞のフォーマットで出していたんですよ。ワープロを使って自分たちで原稿を作って貼り付けて、印刷所に行って輪転機回して印刷していました。学校近くの文房具屋さんや弁当屋さんとかに広告も出してもらって、一つの枠で3,000円とか5,000円とか貰ってたのかなあ…。今思うと、広告営業、編集、執筆、校正などを一通りやっていたんですよね。

もともと伝統のある名門校だったので、学生運動の頃の新聞も学校に残っていました。そういうのを見て影響されて「湾岸戦争はいかがなものか」「アメリカはおかしい」みたいなコラムを書いたりしてましたね。学生新聞なのにね(笑)。そういうイタい高校生でしたねえ……。

物書きになりたいという将来の夢は、その頃から決めていました。当時、「別冊宝島」が元気だった頃で、こういうルポルタージュは面白いな、と思っていました。文章を書いて伝えるということに興味があって、新聞部でその面白さに目覚めて、17〜18歳の頃にはもうライター志望になっていた。

高校3年の時にとっていた小論文対策の「国語表現」という授業で、先生に「将来自分はライターになりたいと思っているんですが、僕は物書きになれるでしょ うか?」って真面目に聞いたんです。さすがに先生も困ったと思うんですけど「ライターになれるかどうかはわからないが、文章から才気は感じる」といってく れたんですね。僕は結構ポジティブで単純な性格なので、その言葉が背中を押してくれた面はありますね。

自分の進路を考えるようになって、じゃあどうやったらライターになれるだろう? となった時に、別冊宝島の執筆者のプロフィールを見ると、だいたい東大、早大、明大あたりが多くて、しかも「出版社勤務を経てフリー」みたいな人が多い。6大学くらいは出ておいて、しかも会社勤務や出版社を経て、というのがどうやら王道なコースっぽいなと思ったんです。

それで大学を受験するんですが、とりあえず滑り止めの大学に下手に受かったら、そこに行って俺は堕落すると思ったんで、現役の時は6大学以上しか受けず、結局玉砕。それで浪人しました。
浪人時代の友はレコ屋巡りと「別冊宝島」

でもこんな性格なんで、予備校に入っても勉強はしないんですよ。バンドはやめてましたけど、楽器は弾いていました。予備校に行って出席のカードリーダーを 通したら、授業に出ないで高田馬場のゲーセンでずーっと「スト2」の対戦をやってましたね。高田馬場ではけっこう強い方だったと思います。

あとは当時、中古CD集めに凝っていたので、学費をごまかして池袋、新宿、渋谷の中古レコード屋をガーッと回って、みたいなダメな浪人時代でしたね。ヴァージンメガストアとかHMVが出てきて、タワーレコードが充実した頃でしたが、いちばん通ったのが池袋のWAVEでした。浪人していると精神も病んでくるので、家で大音量でSPKとかWHITEHOUSEとかのノイズミュージックを聴いていて、近所からちょっと心配されたり(笑)。

両親ももちろん心配してたと思いますよ。母親は口うるさかったですけど、父親は超リベラルで、「20歳過ぎたらもう大人だし、俺は何も言わん」みたいな人でしたね。今でもまったくそういうスタンスは変わりません。

本は「別冊宝島」とかを読んでいました。オバタカズユキさんのスタンスや分析の仕方、シャープな文章に凄く影響を受けましたね。文章は似ていないと思うんですけど、マトリックスを作ったりとか、客観的で少しひねったスタンスがクールだなと思って、すごく影響を受けました。

浪人時代もそんな感じだったのであまり勉強していなかったんですが、もともと政治経済には興味があったし、英単語を暗記したら英語の偏差値も上がりました。結局、早稲田の社学と明治の政経に受かって、高校時代の先生に相談して早稲田に進みました。
3万部を超える大ヒット作となった
「Twitter社会論 〜新たなリアルタイム
・ウェブの潮流」。トークショーやシンポ
ジウムをTwitterで中継する行為は“tsudaる”
と呼ばれ、2010年版「現代用語の基礎知識」
にも収録された。
音楽と彼女とパソコンに耽搦した大学生活



いまはもう社交的になりましたけど、当時は友だちになるまで時間がかかるタイプだったんです。さらに一浪で性格も少し暗くなっていて(笑)。

大学に入ってすぐ、クラスの親睦会があるんですけど、それに参加しなかったら完全に乗り損ねて、クラスにいてもほとんど喋る人がいなくなって。それで5月くらいには授業に出なくなっていましたね。

音楽は続けようと思っていたんですが、大学に入った時は全体的にいろんな気分が落ちていたので“いろんな人と一緒に仲良くバンド”という気分じゃなかった。それで、たまたま見つけた「多重録音芸術研究会」というサークルに入りました。

 もともとはビートルズの多重録音みたいなものをテープで研究したり、自分たちでも作ってみる、という活動をするサークルだったんですが、僕が入った頃は打 ち込みも出てきていて、自分たちでオリジナルも作っていました。めぼしい活動としては月に1回鑑賞会というのがあって、自分たちが作った曲をDATで持ってきて、それを3時間くらい学生会館でお互いの曲を聴いて、それに対する批評をルーズリーフに書き込むという暗くて超オタッキーなサークル(笑)。作品を作るのはそれぞれ個別に家で一人でやって、それを皆で批評する。そういう内向的なサークルでした。

このサークルに入ったのが僕としては人生の転機になったんです。僕と同じ時期に2学年上の女子が入ってきたんですが、僕はその子のことが好きになって、その年の夏休みに付き合うことになったんです。

それが人生初の彼女なんですが、結局、そのひとが現在の僕の奥さんになるんです。9年つきあってから結婚して、今に至ります。

それで、夏まではいろいろ鬱屈した生活を送って、夏からは彼女の部屋に入り浸りになるという、典型的なダメな大学生でしたねえ。3年生の時が一番ヒドかっ た。夕方起きたら飯を食いに行って、後はプレステやパソコン通信。だいたい終電くらいで彼女が家に帰ってくるので、朝くらいまで話をして、朝の4時くらい に彼女が寝た後でプレステをやって、昼の10時くらいに眠りにつく。その後彼女が起き出して仕事に出かけるのを見送って夕方まで寝る。そんな生活サイクルを半年間続けました。僕、今でも「その頃が人生で一番幸せな半年間だった」って言ってるんですけど(笑)。ホントに楽しくてね。

そんな自堕落な生活しか送っていなかったんですが、大学3年生の終わりになって就職活動をすることになり、そこで思い出すわけですよ。「ああ、そういえば俺はライターになりたかったんだ」と。

出版社を受けたんですが、エントリーシートや作文とかはほとんど通って、応募した会社はだいたい面接まで行ったんですけど、もう全て落とされましたね。最 終面接まで残った会社も何社かあったんですけど、全て落とされてすごく落ち込みましたねえ……。能力は認められたのに、人間性を否定されたような気になっ て。

たぶん面接とかで「津田くんは雑誌を作りたいというけど、うちは雑誌だけじゃなくて営業とか事業のような仕事もある。そういう仕事には興味ある?」「ないです! 雑誌作りたいです!」って答えていたのがよくなかったのかな(笑)。
2006年10月上梓の実用書。知る人ぞ知る ベストセラー
ライター見習い時代に発揮した独自の営業メソッド

出版社も全部落ちて、ライターになるにしても自分にはまだ積み上げてきたものがないし、自分には何があるんだろう? と思いました。その時、自分にあるの はパソコンとインターネットに関する知識で、これだったら人に対して何かを伝えたり書いたりするのに生かせるなと思ったんです。

そんな時、僕の彼女が秋葉原でたまたま高校の時の先輩に会ったんです。その人がパソコン系のフリーライターをやっていて、彼のところでアシスタントをするようになりました。それが97年、大学4年の1月です。

ただ、始めたのはいいけれど、アルバイトは週2回で、しかも昼から5時くらいまで、時給は1000円くらいの条件だから週1万円。アルバイトを続けてもこのままでは月収4万円だ!と思って、やはりこれは自分で仕事を作るしかない、と思ったんです。

97年はちょうどパソコン雑誌の大ブームが起こっていた頃で、本屋に行ってもパソコン雑誌とかインターネット誌がどんどん出てきて、書籍も沢山出ている。こんなに一杯出ているんだったら、書き手が足りないに違いない、と考えたんです。

そこで大きな本屋とか図書館に行って、当時出ていたパソコン雑誌やインターネット雑誌の編集部や版元の住所と連絡先のリストを作りました。そうしたらトー タルで150件あったので、そのライターさんたちで“新しい事務所を作って、スタッフも増強して、業務拡張をするので、よかったら仕事をください”みたい な文面のハガキを出して売り込んだんです。

僕の目論見としては、150通の1割くらいからレスポンスがあって、話をしてみてその半分くらいが仕事になれば、新規の仕事が7〜8件は来るんじゃないか。そして一気に新規の仕事が来たら、そのライターさんも一人で仕事が回せなくなるから、おこぼれ的な仕事がオレに回ってくるんじゃないかな、と。

それで実行してみたら本当にその通りになって、7件くらい来た新規の仕事のうち、3件くらいを担当することになった。それでやってみたら結構評判がよくて、それがレギュラーの仕事になり、週2回のアルバイトから毎日そこで仕事をするようになったんです。新規の仕事が一気に来たので、会社にして編集プロダクションにしよう、という話になったので、僕がジュンク堂で一番よさそうな本を買ってきて、1ヶ月くらいで手続きをして会社を設立したんです。

毎日働くようになって、会社にもなって、「さあ、頑張るぞ、これから新社会人だ」と思っていたら卒業できなかった、というオチがやってくるんです(笑)結 局、大学5年目は週1で大学に通いつつ毎日働くことになりました。だから、僕のプロフィールで「大学在学中からライターの仕事を始め」ってよく書いてある んですけど、それって実はめちゃくちゃ結果論なんですよ。
現在の仕事に繋がるインターネットとの出会い

大学3年の頃、95年にインターネットが現れました。当時から早稲田はインターネット環境がよくて、コンピューターセンターが24時間使えて、インターネットやり放題、家からもダイヤルアップ接続でネットを使えたので、学校でも家からでもインターネットをやり放題でした。



インターネット、凄い! これは世の中を変えるな」と思いました。それが大学時代の原体験であると同時に、いまの僕の仕事にも繋がっています。僕は別冊宝島を読んでライターを志し て、紙メディアが好きだったんですけど、同時に大学時代にインターネットと出会ったという2つが原点になっている。やっぱり両方好きなんですよ。だからイ ンターネットという新メディアでも、紙みたいな旧メディアでも両方活動するし、逆に「インターネットが既存メディアを全部駆逐する」みたいなそういう極端 な立場にも立ちたくないんです。



梅田望夫さんにインタビューした時の話なんですけど、彼は「大学生の頃に、社会を変革する新しいメディアに触れた世代がイノベーターになる」っていう持論があるんですね。スティーブ・ジョブスとか、ビル・ゲイツとか、孫正義も、だいた1955年近辺の生まれですよね。彼らが大学生だった当時に、大企業しか持てなかったコンピュータがパーソナルなところに降りてきて、それがイノベーションを起こすことに繋がった。インターネットでいえば、ちょうどそれが僕らの大学時代なんです。サイバーエージェントの藤田さん(藤田晋)とかグーグル創業者の2人(ラリー・ページ、セルゲイ・ブリン)も僕と同学年。堀江さん(堀江貴文)も1学年上だし、90年代終わりの第1次ネットベンチャーブームを支えたのって僕らの世代なんですよ。 


僕はITベンチャーを起業するという方向には行きませんでしたけど、彼らのそういうイノベーション感覚は肌で分かるし、同じ世代が出てきたということに関しては共感しました。就職しなくてもこういう道があるんだ、と思いましたね。

津田さんと牧村憲一さん(音楽プロデューサー
/昭和音楽大学講師)の共著『サバイバル音楽
論』(中公新書ラクレ)。2人が行ってきた
「未来型音楽レーベル実践講座」の授業をまと
めたもので、今後の音楽ビジネスのあり方に関
するヒントが詰まった1冊
インターネット雑誌ブームに乗った編プロ経営時代

パソコンやインターネットの渦が大きくなってくる時に、その成長の動きの中にいた ので、大学にいた時に蓄積したものが上手く生きるようになったんです。当時はまだパソコン雑誌に周辺機器のレビューとかインターネットのおすすめ通販サイ トとか、メールの書き方とか、そういう実用系の原稿を書いていました。

大学に通いながらの1年を含めて、トータルで約2年半、その事務所で働きました。いろんな仕事がどんどん増えていって、その時期から「SPA!」とか日経BPとか、宝島社の雑誌にも書くようになりました。もともとフリー指向はあったところに、お世話になっていた編集者からも独立を奨められたのを真に受けて、99年の夏に事務所を辞めてフリーになったんです。

当時、編プロという商売は間近で見ていてけっこうおいしいなと思っていたので、自分でも始めることにしました。最初は自分とアルバイト1人くらいで始めたんですけど、2年経った頃にはスタッフも5人くらいに増えました。当時はインターネット雑誌が16誌くらいあって、そのうち12誌くらいで書いてましたからね。仕事は山ほどありました。

当時創刊して間もなかった頃の「サイゾー」から、インターネット雑誌の比較記事の依頼があったんですが、その時は唯一ペンネームを使いまし た。当時僕は実用系の記事を書いていましたが、それをオバタさんみたいなスタイルの、マトリックスを使った、ちょっと斜に構えたような文体で、雑誌批評の ような記事を書いたんです。それがインターネット誌業界ですごく話題になって、日経BPや宝島社とか、いろんなところでコピーされて回覧されていた、というのを後から知りました。

僕は自分でルールを決めて、そのルール通りに仕事をするのが好きなんです。フリーランスになったときに決めたルールは「どんな仕事でも、どんなにギャラが 安くても“新規”の仕事は必ず受ける」ということ。それまで自分がやったことのないジャンルで、苦労するのは分かっていたとしても、知識のないジャンルを 苦労して取材して書くと、その分自分の幅が広がるだろうと考えたんです。その後、継続するかは自分で決めればいいだけですから。

当時はエロゲーのレビューもやりました。攻略して原稿書いてラフ作って、キャプチャーして、という手間の割にもページ単価は1万円とか激安だったんですが、その経験は結構後で生きましたね。
デジタルコンテンツ化がビジネスを変える! という実感


「ナップスター革命」との出会い

99年は結構大きなターニングポイントでした。独立したことがひとつ、もう1つが「ナップスター」が出てきたことですね。

インターネットを常時接続で繋いで、アーティスト名や曲名で検索すると、世界中のパソコン上にあるMP3ファイル名が画面にズラーッと並んでいて、ダブルクリックすると5分くらいでファイルが落ちてくる。「すげえな、これは革命だ!」って思いました。

最初にインターネットに触れたときの革命感みたいなものが、「ナップスター」に触れた時にもあったんです。イリーガルな存在だし、音楽業界にとってはたまったもんじゃないけれど、ダブルクリックするだけで楽曲のファイルが落ちてくる。例えば1曲50円とか100円がユーザーから払われて、それがアーティストのところにいくようになるのであれば“これは凄い、未来のラジオになるじゃん!”と思いました。その後2003年にiTunesが始まって、改めて衝撃を受けることになります。この時僕は、デジタルコンテンツ化は、流通やコンテンツビジネスのあり方を変えるな、と実感しましたね。

同時に、現在自分はライターとして仕事があって喰えているけど、やがて物書きの仕事も困るだろうな、とも感じました。出版の仕事もおそらく同じような形でデジタル化して流通していくようになると、出版社とかの役割も違ったものになっていくと思っていましたね。

この頃から、ネットと、ネットにおける情報流通がどうビジネスコンテンツを変えていくのかということに興味を持つようになったんです。

当時、音楽評論家や音楽ライターは山ほどいて、僕なんかよりも全然詳しくて音楽を語れる人もいっぱいいる。インターネットのライターも、僕より詳しい人は多い。でも、「ナップスター」のようなものが現れて、音楽がインターネットによってどう変わるのか、ということをインターネットと音楽、両方組み合わせて語れる人というのは誰もいなかったんです。僕はインターネットも音楽も大好きだから、ここは僕がやろう、とその時に思ったんです。

そこで、音楽配信とかデジタル系のコンテンツに関する取材のような仕事を積極的に受けるようにしたんです。当時はソニーなども音楽配信を始める、というような時期でしたし、意識的に仕事を広げていったんです。

そうしているうち、02年頃からどんどん僕が仕事をしていた雑誌が潰れはじめたんです。00〜01年くらいに常時接続がブームになって、そうすると読者のリテラシーも上がっていくんですよね。それまではインターネットの接続は結構面倒でしたし、初心者向けに雑誌を作っていればよかった。それが雑誌を読まなくても検索で済ませることが多くなってきたんですね。ネットがコモディティ化することによってユーザー全体のリテラシーが上がったんです。

結果どうなったかというと、16誌くらいあったインターネット雑誌がどんどん減っていきました。こういうインターネットとかITを書いている編プロは、保ってもあと数年だなと思いましたね。

ブログ「音楽配信メモ」でソロ活動を開始

それならば、とにかく専門分野を作ろうと。それまでは編プロ事務所の社長として、またライターとして仕事をしていたんですけど、もう事務所の管理業務とかはやらずに、専門性を高めて津田大介という自分個人の名前を売っていった方がいいな、と思ったんです。

こうしてシフトチェンジしたのは02年です。そこから「音楽配信メモ」という自分のブログをスタートさせました。

99年のナップスター登場から、自分の中で取材をしてきた情報の蓄積があったので、当時まだあまり注目されてはいませんでしたけど、あえて音楽配信に特化したものを始めたんです。

プロとして原稿を書いているのに、なぜ無料のブログに原稿を掲載するのか、と言われたこともあるんですけど、やはりそれは書いていて楽しいからなんです。それに自分の意見も全て書けるし、知識も披露することができる。それが仕事にもつながってくるじゃないかと思っていました。ただしプロが書くものとして、やるからには人気サイトにはしたいと思っていましたが、2ヶ月くらいで人気サイトになって、アクセスも集まるようになりました。

グーグルアドセンスとか、アマゾンのアフィリエイトも始まっていましたから、当時は多い月で両方あわせて月に10万円くらいは入ってきていましたね。これはブログを更新するというのでも仕事になるんだな、いつでもこれをやることはできるんだ、という精神的な保険みたいなものにはなりました。

当時は「Win-mx」というファイル交換ソフトがあって、ヘビーなユーザーが結構いたので、そのルポルタージュ本を書かないか、と依頼があったのが03年。それが『だからwin-mxはやめられない!』という本になりました。これもやはりデジタルコンテンツがどう流通を変えていくか、という最前線を紹介する本でした。

その翌年に「音楽配信メモ」を見た集英社の編集者から依頼があって、ブログをベースに書き下ろしたんですが、それが『誰が音楽を殺すのか』です。

“ジャーナリスト・津田大介”として音楽著作権の研究会に

『だからWin-mxはやめられない!』を見た日経デジタルコア(日経の有識者が集まるデジタル系の会議)の担当者から、この内容について講演してくれないか、と依頼があったんです。講演の時に、ライターと名乗るのってちょっと落ち着かないなあ、という感じがあって、この時からITジャーナリストを名乗ったんです。僕がジャーナリストを名乗るようになる転機となった仕事です。

04年秋に『誰が音楽を殺すのか』を出した直後、JASRACが毎年音楽業界の人を集めて行うシンポジウムにパネリストとして出ました。僕は音楽業界では全然無名だったんですけど、ほかのパネリストが元ソニー・ミュージックの丸山茂雄さん、当時の音声連(社団法人音楽制作者連盟)の理事長だった糟谷銑司さんソニーの音楽配信のトップだった高堂学さん(株式会社レーベルゲート代表取締役社長)という人たちで、僕にとってはここに呼ばれたのはラッキーでした。

そこで喋った内容が面白かったらしく、シンポジウムには音楽業界や著作権系の偉い方とか、文化庁の方も参加していたので、それをきっかけに06年から著作権審議会に呼ばれるようになったんです。このJASRACのシンポジウムは、現在にも繋がる大きな転機でした。

いま僕が仕事の中心にしているのは著作権と、ツイッターがメディアにどう影響を与えるか、そしてネットジャーナリズム。けっこう幅広くやっていると思うんですが、原点はすべてデジタルがどう社会を変えていくのか、ということなんです。

ただ、僕個人の仕事を増やしていくと編プロの業務も疎かになり、どんどん人も辞めて、この頃は収入も激減しました。最も儲かっていた01年頃に比べると、年収が4分の1くらいになりましたから。

それでも名前を売るまでは耕す時期だと思って、お金にならない仕事も含めてやりましたね。今振り返ってみると05〜08年くらいが一番辛い時期でしたね。仕事はあるけれども、結局仕事以外のことばかりやるようになっていたんです。例えば著作権審議会に参加するといろいろ準備も必要ですが、謝礼は1回1万円くらいなんです。

「think C 著作権保護期間延長を考えるフォーラム」にも顔を出すようになりました。福井健策さんという弁護士の先生から呼ばれて、著作権の保護期間延長に反対する運動を一緒にやりましょう、と誘われたんです。

当時、審議会で決まった方針だから、保護期間は絶対延長されるだろうと思われていました。それをネットの力で止めよう、とサイトを作って世話人として運営したんです。福井さんと僕の人脈を使って発起人も100人くらいまで集めました。かなりのビッグネームも参加して反響も大きくなり、フォーラム立ち上げの記者会見やシンポジウムもやったりして、僕自身かなり持ち出してやっていました。

結果的には、慎重な議論を求める発起人が沢山いて、ビッグネームも賛同しているとなると、文化庁も強行できないという話になりました。翌年からこの問題を検討する審議会を作るということになり、僕もそこに呼ばれることになったんです。2年間の議論の結果、延長をつぶすことができたんです。

ネットを上手く使うことで、行政の政策のひとつとして反映させるというのは、日本の著作権の歴史を見ても類を見ない例だと思います。あれが、自分の中での一つの成功体験になっているのは確かですね。

他にもいろいろな研究会に呼ばれるようになっていて、この時期はそういうお金にならないのに手間のかかることばかりやっていました。07年10月にはMIAU=インターネットユーザー協会(創設時は任意団体・インターネット先進ユーザーの会)を立ち上げたんですが、これも全部ボランティアです。
音楽雑誌への不満から立ち上げた音楽情報サイト「ナタリー」
 
そんな時期にさらに「ナタリー」を立ち上げました。社長の大山卓也くんと僕の2人が創業メンバーです。
 
僕はとにかく「ロッキンオン」が大嫌い。「ロッキンオンは諸悪の根源」と公言しているので書いてもらって全然かまいません。広告をバーターで記事掲載の前提みたいにしている一方で、音楽ジャーナリズムを標榜する姿勢が僕は大嫌いなんです。
 
音楽業界が衰退しているのを目の当たり にしている時に、音楽メディアの責任ってものすごく大きいと思うんですよ。そういう既存の音楽メディアへの不満がすごくあったので、新しい音楽メディアを ネットの方法論で作らなければだめだと思っていたんです。それが「ナタリー」です。一緒に始めた卓也くんとは02年頃からの友だちで、彼のミュージックマシーンというサイトのオフ会で知り合ったんです。一緒にネットラジオもやっていました。
 
彼は音楽ライターだったんですが、その頃僕が「新しいメディアを会社でやんねえ?」なんて焚き付けていたんです。彼はスペースシャワーTVとかからも仕事を取ってきていたのですが、これは新しいメディアを作った方が楽しいよ、ということで、2人で出資して「ナターシャ」という会社を設立したんです。
 
既存の音楽メディアに対する不満という点で僕と彼は共通していたので、親会社もなく、自分たちの資金だけで始めました。結局、会社を作ってからウェブの公開まで、準備には1年かかりましたね。
 
サイトがオープンした頃には資金が底をつき、その後も倒産の危機が全部で5度くらいありましたね。最初の2年間、僕はお金をもらっていませんし。
 
07年の2月1日にオープンしたんですが、当初はなかなかPVも伸びないしお金も入ってこないしで、すごく大変でした。ちょうどその頃、僕はいろんなネットメディアの人に取材をしていた時期だったので、音楽ニュースの販売を提案すれば、買ってくれるところがあるんじゃないか、と思ったんです。
 
特にポータルサイトや着メロ/着うたのサイトに音楽ニュースを買ってもらえないかということで、僕がリストアップして、最初ライターの事務所でやった150社の営業リストと同じような方法で、アポを取って2人で営業に回ったんです。3ヶ月くらい泥臭く営業に回っていたら、その中でモバゲーの「DeNA」が買ってくれることになったんです。
 
ついでにその音楽コンテンツで、いろいろ編集プロダクション的な仕事も依頼されて、それが割と大きな仕事になりました。その後「GREE」との仕事も決まって、ようやく一息つけるようになったんです。
 
そうやって安定すると、いろいろと勝負ができるようになって、人も増やして記事も増やすことができるようになってきて、そうすると記事広告みたいなものも増えて、といろいろなものが回りはじめたんです。
 
僕らは知名度がないので、新しい技術を使って、それによって目立つという方法論で、ツイッターも早くから取り入れていました。「IT MEDIA」の岡田ゆかさんのようなIT系のライターさんにも取材してもらったりしたんですが、その記事が掲載されてから、ページビューが2倍になりました。そういうところからPVも伸びはじめましたね。

コミックとお笑いを加え、ポップカルチャーの総合サイトに

途中から、音楽だけでは頭打ちになるから、総合メディアを目指そうということになって。僕はオリコンも嫌いなので、オリコンと真っ正面から勝負使用ということで、お笑いやコミックも始めることになったんです。

社長のサポートができる有能なスタッフがほしいので、僕の友人だった荒木源という編集者に声をかけたんですが、最初は「ナタリー? ないよね!」と言われて5分で終了(笑)。でもその3ヶ月後くらいにいきなり彼から電話があって「コミックナタリーはイケると思うんだよね」と。彼は某ファッション誌の編集部にいたんですが、元々サブカル人間だったので、ちょうどその頃ファッションのきらびやかな世界に嫌気がさしていたみたいで意気投合。彼が「コミックナタリー」の編集長になり、今は音楽と並ぶくらいのPVがあるコンテンツになっています。

その後09年の6月くらいから半年くらいは、プロデューサーとして「お笑いナタリー」の立ち上げを僕自身がやりました。半年間くらいは「ナターシャ」に毎日行って、事務所への挨拶回りもして、記事も書いていましたよ。毎日お笑いの記事を書きながら、同時に『ツイッター社会論』を書いていたので、すごくたいへんでしたね。

音楽とコミック、お笑いというポップカルチャーを繋ぐ、もっとシナジーを発揮できるようなことを、「ナタリー」ではやっていきたいと思っています。

“第3の波”となったツイッター

97年頃、大学時代にインターネットを触ったという第1の波。99年のナップスターで第2の波とすると、ツイッターが第3の大きな波ですね。僕はツイッターには随分救われているんですよ。

カネもないし辛いし、という時期が3年くらい続いてたんですが、そういう時に出てきたのがツイッターです。ツイッターはやっていて単純に楽しかった。そして、これは新しいものを切り開けるな、と思いましたね。

絶対これはこのまま続けていったらブレイクする、と思って、まずは楽しくツイッターをしていました。ログを見ても、07年の6月くらいにはmixiより楽しい、みたいなことを言っています。僕の性に合っていたんでしょうね。

独立してからいろいろとやっていたことが、今やっと実を結んできている感じなんですが、その実を結ばせてくれたのがツイッターだと思っています。

例えばツイッターを通じて専門家と話をすると、いろんなことが分かる。違った立場の人とも比較的簡単に対話ができる。例えば著作権だったら、それを守る立場の人と反対の人、両方から話を聞ける。僕は、立場とか意見が違う人とも仲良くしてますよ。ツイッターで対話をして“じゃあ実際に会おうよ”となって一緒に飲んだりすることも多いです。

僕はもともとそういう感じなんですよ。自分のサイトにメールで凄く批判的なことを書き込んできた人に返事をしたことから、実施に会って飲みに行くようになって仲良くなった人も実際、何人もいます。話せば分かる、と思ってるところがあるので。

それに、何かに突っかかってくるということは、そのことについて何か意見あるということだと思うし、意見があるのは、その対象に対してよくしたい、こういう風になったらいいのに、という思いは変わらない。その方法論とかプロセスは違っていても、見ている現実が違っているだけなので、それはすり合わせていけばいいじゃん、って思っているんです。少なくとも僕の側からNGということはほとんどないですね。

いまネットジャーナリズムを論じている人たちって、佐々木俊尚さん湯川 鶴章さん藤代裕之さんにしても、全員新聞社や通信社という既存メディア出身の方ばかりです。僕はそういう大メディア出身ではなくて、ひとりの人間としてフリーの立場で、ボトムアップでやってきました。僕と似たようなスタンスの人には会ったことがないですね。インターネットに対しても既存メディアに対しても、僕は極めてフラットですよ

既存メディアには悪いところも一杯ありますけど、いいところもある。僕はインターネットは大好きですけど、ネットってしょうもないなあ、と感じさせられることも一杯ありましたからね。

もうインターネットと既存メディアが仲悪くしているというのもどうかと思います。もはや既存メディアはインターネットを利用するフェーズじゃないですか。既存メディアはネットを利用して新しいビジネスモデルを作ればいいんじゃないでしょうか。


[取材/文:本橋康治(コントリビューティング・エディター)]


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