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レポート
2003.06.10
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藤本智士/FUJIMOTO SATOSHI インタビュー

編集者/『PARK』発行人

1. フリーペーパーの編集長・黎明期

小っさい時から冒険ものとかは書いたりしてたんですよ。学校でも国語がいちばん好きやったし、本を読むのんもめっちゃ好きな子どもでしたね。昔住んでた団地の横に空き地があって、いっつもそこで遊んでたんですよ。木の上に基地つくって、落ちてる赤いレンガは肉やーとかいうて。冒険ごっこ。探偵手帳とかいって、ちっちゃいメモ帳の表紙にそう書いただけなんやけど、そこにみんなでいろんなことを書き込むんですよ。そんなのを仕切ってた小学生でしたね。

大学んときは青春。毎日だーらだーら過ごして、バンドやって。ちょうどネオGSとかが流行ってて、スパイダースとかをコピーしてました。バンド活動をやりながら、なぜかみんなめっちゃ本が好きで、村上龍とか花村満月とか、中上健次とか必死で読んでましたね。アメリカ民謡研究部って言うんですが、略して「アメ民」。そのメンバーで「アメ民読書研究会」っていうのをつくって、みんなで感想文とか投稿小説とかをまとめて、他のクラブに勝手に配ったりしてました。そんなことしているうちに、漠然ともの書きなりたいなあって思いだして。でも、作家が何ってあまりわかってなかった。

4回生の夏になって、漠然と就職情報誌とかを見てたら、なにやら「構成作家募集」とか書いてあって。毎日放送の契約社員。ようわからんけど、作家やし、とか思って面接に行ったんですよ。結局最終選考までいったんですが落ちて。どうしようーと思ってたところで採ってくれたんが、会社案内とかを制作したり、企業合同セミナーとかを仕切っている会社だったんです。

営業もするし広告のコピーなんかも書いたりと、わりとクリエイティブな仕事もできる会社だったんですが、僕はずっと悩んでて。本当にやりたいことは違うって思ってて。岡本太郎の『自分の中に毒を持て』っていう本が好きで、ある日改めて読んだんです。そうしたら、「人生の分かれ道で悩んでて、かたっぽはちゃんと安定した収入もあるっていう道とこれからどうなるかわからへん、っていう道の間で悩んでるっていう時、冷静に考えたらお金が安定した道行けばいいん決まっているのに、悩んでるっていう時点で、本当はこっちに行きたいんや」っていうことが分りやすく書いてあったんですよ。ほんまにその通りやなあ、と思って。

そんなときに、僕がはじめて仕事を取れたお客さんがハーバーランドで、当時、神戸ハーバーサーカスっていう震災復興をこめた建物がつくられたんですね。それをつくった人材派遣の(株)パソナの南部社長さんのもとに、ドトールコーヒーの鳥羽さんとか、セガの中山さんとか、いろんなベンチャー企業の社長さんが一同に介する企業セミナーみたいんがあったんですよ。で、どうせタダでやってるから藤本君、見て帰れやあと言われて、そうしますわーと会社に帰らんとずーと見てたんです。そうしたら、たまたま、ソフトバンクの孫社長が何気ない会話の中で、「夢持ってる人はいっぱいいるけど、実際に計画立てて動き出す人はなかなかおらへん」ってさらって言ってて。「オレやな」って思って。その足で会社に帰って「辞めます」って言ったんです。入社してから4ヵ月くらいやったかなあ。
THE BAG magazine創刊号

2. 東京って夢もって生きてるヤツこんなにおるんや!?

そこでね、ふつうはみんなフリーターになるんかもしれないですけど、フリーターになってもね。みんな一生懸命働いているじゃないですか。月〜金入って疲れて、余計にお金苦しいでしょ。そんなんたいへんやなあと思って。それやったら、ぜったい定時で帰れて、作家になりたいっていうことを理解してくれてる会社を見つけて入るぞって思ったんです。

だから、面接に行くたびに、僕は小説家になりたいんです。家に帰ってまで会社のこととか考えたくないんですって(笑)。何しに就職活動しとんねんっていう感じなんですけど、僕のなかでは、同じことを繰り返したらあかんって思ってたんですよね。そんなんで通るわけはない。たいてい、夢持つのはいいけどーなー、でもちょっとって言われまくってました(笑)。40社くらい、ひたすら行きまくって、もうどんな職種でもよくなってた。

で、ある広告代理店に面接に行った時に、社長さんに、僕は小説家なりたいんですーって同じように話をしていたらムスって聞いてた。ああここもアカンなあって帰ろうとしたら、いきなりその社長さんが常務を呼んで、「俺コイツの話わかるねん」って言ったんです。聞いてみたら、社長さんも昔は小説家になりたくて、なんかの新人賞も取って頑張ったけど、結局挫折して、新聞記者を経て今は代理店の社長に落ち着いたっていうことがわかったんです。「広告が掲載された見本誌をクライアントに送るっていうしょうもない仕事があるから、おまえそれやれ!」って言われて。「はい!」って即答して会社員になりました。

でもある意味ケツ叩かれてるようなもんなんで、プレッシャーはありましたね。仕事は単純な発送作業と掲載誌の足りない分を本屋に買いに行くこと。毎日本屋で立ち読みをしていて、ある日、『リトルモア』っていう文芸誌があることを知り、ストリートノベル大賞というのをやるって書いてあったんです。これ俺応募しようって応募したら佳作をもらったんです。はじめて評価されたわけですからめちゃめちゃ嬉しかったですね。

その時に大賞を受賞したのは京都在住の福永信さんっていう人。今ものすごく活躍してはりますね。佳作やから東京での授賞式にわざわざ行く必要もなかったんですけど、僕の担当になってくれた孫さんにお会いしたくて自費で行ったんですよ。ちょうどリトルモアムービーの立ち上げの時で、忙しい中その試写とかを観せてくれたりスタッフの人を紹介してくれはってね。で、そんときに、当たり前のように僕俳優になりたいんですよとか、僕小説家になりたいんですよとか、そういうタマゴみたいな人がいっぱいいてて。東京ってすごいなあって思ったんですよ。こんなに夢持っている人がたくさんおるんやって。それが、僕の東京の第一印象でしたね。

ものすごいインパクトを受けて大阪に帰ってきて思ったのは、ただ場がないから見えへんけど、きっとそういう若い子らはこっちにもおるんやろうなあっていうことでした。そこで、そういうヤツにたくさん会おうと思ったら、どういう場をつくればいいんやろうって考えた。自分でつくれる場ってなんやろうって。で、フリーペーパーをつくろう!って決めたその足でマックを買いに行ってました。
3回目のリニューアル。B6サイズ
とコンパクトに。

3. 『バグマガ』:はじめの一歩で得た宝物

買ったはいいけど、なんもでけへんし、ひとりしかおらへんし。そうか、じゃあチラシつくって、書きたいやつ募集、デザイナー募集、なにもかもすべてを募集したんです。で、あっちこっちに配布したらすぐに反応がありましたね。学生の子が多かったけど、なんかこういうのやりたいっていう漠然とした思いを抱えてる子もいて、じゃあいっしょに何かやろうっていってどんどんと仲間が増えていったんです。

やるからには続けていかな意味がない。フリーペーパーとかってすぐになくなるじゃないですか。とくに個人でやっているとね。そのためにはある程度広告とかもいる。営業してまわるためのツールが必要だということで創刊準備号をつくったんが98年の11月でした。タイトルは『THE BAG Magazine(バグマガ)』。最初から1万部にしました。会社に行きながら土日は営業。毎号赤字ではありますが、半ば意地のようにずっと出し続けてましたね。

最初はずっと若い子の表現っていうことにこだわっていて、続けていくうちに友達が増えてきた。単純に絵を描いてるヤツもいっぱい出て来て、フリーペーパーでは紹介しきれなくなってきた。そこで、「アートビート」っていうアートのフリーマーケットのようなイベントを考えて、その企画書持ってあっちこっちに営業してまわったんですよ。そうしたら、「ああ『バグマガ』読んでるでー」って言われてびっくりしたんです。それまでは若者しか読んでないと思ってたんですが、実はけっこう大人が読んでるっていうことがわかり焦りましたね。なかには、「関西でリアルな情報とかストリートの動きみたいなことを伝えてるんは『花文』なきあと『バグマガ』くらいやなあ」って言われて、とんでもなく恥ずかしくなって、これじゃあアカンって思ったんです。(*昔、大阪に『花形文化通信』(略して『花文』)というサブカル系のフリーペーパーがあった)

改めて見直したら面白くない! しょーもない学生の書いているような文章とか何がおもろいねんって愕然としましたね。これはアカン。自分が書いて欲しい人に書いてもらわな意味ないやんっていう単純なことに気がつきリニューアルすることに決めたんです。

吉村智樹さんとか吉本の芸人さんとかにも声をかけたりしましたね。ミルクマン斎藤さんとか、自分の書いて欲しいって思う理想の人に片っ端から当たろーって思いました。携帯の番号とか調べてかけたり、ウェブでメールアドレス調べて送ったり。イベントがあるっていうのがわかったら、その楽屋に押しかけていって『バグマガ』配ってひたすらお願いしてみたり。そうしているうちに、少しずつ、嶽本野ばらさんとか竹内義和さんとか、桂あやめさん、とかにも執筆してもらえるようになっていったんです。

全部直談判。ところが、こんなんをやりたいっていう思いをさんざんしゃべったら、意外に「ええよ」って言ってもらえることが多かった。ギャラについても、こっちが言う前から「ああ金いいから」って言われて。竹内さんなんかも「わかってるって。ヨソで儲けてるからタダでええよ」って言わはるんですよ。プロの人ほどカッコイイって思いましたね。みんなめっちゃイイ人で、プロの人ほど、こっちの気持ちが伝わるんやなあって思いました。そのときに、当たって砕けろっていうのが、意外に砕けへんっていうことに、僕は密かに気づいたんです。これは俺の宝ものやあ、って思って。そうやって、自分がつくりたいもの、自分が読みたいものっていうものに近づいていって、『バグマガ』はだんだん納得できるような形になっていったんです。そうなってくると、編集作業みたいなことが楽しくなってきたんです。
六畳川智人名義による『バグマガ』は
いちばん左で最終号。7月にはもう一度
フリーペーパーの原点に戻って、純粋
衝動満載媒体を創刊する。その名は
『パグマガ』とか?!

4. 独立:セカンドステップで得た宝物

そうはいっても、平日は本屋と会社での発送作業。退社してからと土日は『バグマガ』と「アートビート」の企画書を持ってまたあっちこっちに営業してまわる日々で、もういい加減辞めなアカンなあって思ってはいたんですが、なかなかきっかけがなかった。

6月くらいやったかな。『バグマガ』の営業先の社長さんが、映画のポスター集をつくりたいんやけど、『バグマガ』つくってるんやったら本もできるかって聞かれて、思わず「できますよ」って仕事を受けちゃったんですよ。200ページの単行本。これはさすがに会社行きながらは無理やなあ、って思って、お世話になった代理店を退社することになったんです。

そうこうしているうちに、9月のある日、後藤繁雄氏からの電話が携帯にかかってきた。実は5月頃だったか、『リトルモア』の孫さんから、「後藤さんが大阪オリンピックの招致イベントのアート関係のプロデューサーをやるから、「アートビート」の企画書を後藤さんのところに送れ」って言われて、後藤さんの鎌倉の自宅にファックス送ったことがあったんです。もちろん、すぐに会いに行ったら、実は君が送ってくれた企画書が今こんな感じになってんねんって言われて。もし決まったらこのイベントを藤本君に仕切ってもらおうと思ってるんだけどって。「わかりました」と即答しました。

その日家に帰って、自宅兼事務所にしているマックを詰め込んだ四畳半を見たら、こんなところで何が大阪オリンピックのチーフプロデューサーかあ?! そんなん本当に受けれんのか? 他の仕事が決まってるわけでも何でもなかったんですが、これは引越さなアカンって直感で思って。そう思った瞬間、即効で南船場に行って、(今編集とかでイケてる街っていったら南船場なんちゃうん?っていうことで)マンションの一室を事務所として借りたんです。でも実際は失業保険で食う、みたいな(笑)。

事務所の名前は、「アメ民」っていうのんはお守りみたいな感じやからつけなアカンっていうことになって、辞書引いてたらたまたま「グライド」っていう単語を見つけたんです。「すべって進む」っていう意味らしい。これええんちゃうん? なんもせんでも進みそうやで、っていうことで、アメ民とグライドで、アメミングライドになった。さっそく名刺つくって大阪オリンピック関係で企業の人に会う時に使いました。後藤さんが大阪に来た時には、この辺を案内しつつ、「僕この辺に事務所があるんですよ」って言うと、「藤本君ええとこに事務所あるんやなあ」「ちょっと寄ってってくださいよ」ってね(笑)。

そんなこんなでオリンピック招致のイベントは無事に任されることになり、約5万人が集まり大盛況でした。ライブもあって、アートのイベントがあって。また、これは自分に実績が付いたかもしれないな、って思いましたね。その後、2回めの「アートビート」は、閉店直後の心斎橋そごうが会場。1階のフロアを全部使ってライブペインティングとか残ってる什器とか使ってアートのフリーマーケットをやったりして、すごっい面白いイベントになりましたね。閉ってるはずのそごうが開いてるから、ふつうのおばちゃんとかいっぱい入ってきて、子どももおって、おじさんもいっぱい見てたりして、ええ光景やなあって思いましたね。そういう幅広い人に見てもらえるんが僕の目標なんです。
『PARK』創刊号の表紙は阿部カウチ
さん。以後、かんだよう、マムチョ、
コタケマン、福田誠吾、福田利之
(敬称略)と若手アーティストを
積極的に紹介している。
フリーペーパー『PARK』の過去1年分を
もとに再編集したアートブック『PARK』。
1,000円(artbeat publishers)

5. 『PARK』:プロへ

やっぱり出会いが大切。すべてのきっかけは『バグマガ』から派生した友達です。アートに関するアカデミックな知識とかはないんですが、そういう中で自分がどれだけやっていけるかなっていう不安はありましたね。いろんなことをやっていくうちに、自分のなかにも欲が出てきた。また、それを実現させるためには、ある程度、こういう世界のなかで、自分の名前をいかに出していくのかっていうのを考えなあかんなっていうことにも気づいたんです。

そこで、今、大阪で若いアーティストを動かしてるのって誰やろうって考えた。おそらく、FM802の谷口さん、「ブルーナイル」の三村さん、「ディグミーアウト・カフェ」や「タンクギャラリー」の古谷さんの3人やなって思って。じゃ、俺もそこに入ったらええやんって思ったんです。

じゃあどうしようって思った時に、最初は箱を持ちたいな、とも思ったんです。カフェギャラリーとかがいっぱいできてたし。でも、そうするとまた運営とか別のことで振り回されたりしそうなんで、じゃあ、こんだけカフェギャラリーがあるんだったら、まわしていったらええやん、タダやし。作品によって、コイツはここ、コイツはこっちって割り降って。それだけじゃなくて、ギャラリーとか立ち上げるからちょと手伝ってーとか言われたりして。ほんまにピークん時は、月に6本くらい展覧会抱えてる時とかありましたね。

そうこうしてたら、あるとき、毎年アートウォークっていう大阪ミナミにあるギャラリーをめぐるっていうイベントがあって、そのときのトークショーに出てって言われて。あ、やっとここまで来た、って思いましたね。まあ自分の思ってることを自由に言おうって思って望んだら、他の人たちが意外と言われへんということに気づいたんですよ。

それからは、自分は何にも背景にないけど、自分が言うことに説得力を持たせるためにどうすればいいのかっていうことを考えるようになりましたね。802のストリートアートオーディションの審査員とかもやらせてもらったり、仕事の幅も拡がっていきました。

でも、コンテストとかで入賞する作品は、どうしても使いやすいものが選ばれがちで、「アートビート」とかでコイツ才能あるやんって思ってもなかなかその後のきっかけがない。そういう人たちは『バグマガ』では掲載できない。っていうことで、1年前に『PARK』っていうフリーペーパーをつくったんです。

当時は大阪もすごいカフェブームだったんですよ。リラックスできて気持ちいい、みたいななごみが流行ってて。でも、若い子らの絵とか文章とかを見てるとな、それはわかるんやけど、本当はちゃうねんって思ってて。

『PARK』は最初から1年間の計画で、1年間続けたら100ページくらいにはなるから、そうしたら本にまとめようって思ってたんです。編集費はさておき、絵とか描いてくれる子らへのギャラくらいは払えるようにしたいっていうのんはありましたね。まあ、僕自身もプロ意識が持てるようになってきたら、ちゃんとお金を払ってもらうもんつくらなアカンなって思うようになってきましたしね。それが、5月に完成した『PARK』です。前半は自分がいいなあって思うアーティストの作品集で、残りは編集ページ。雑誌というよりは、アートブックに近いような保存性の高いものを意識しました。

僕の場合、伝えたいものが明確にあるっていうことがすべて。今、大阪にこんなおもろいもんがある、こんな面白いヤツがいるっていうことをリアルに伝えたいって思ってて、フリーペーパーは単にそれを伝える手段。より幅広い人に、今リアルに感じれていいものっていうのを出していきたいなって思ってます。

僕ね、例えば芸人さんがアドリブで何かひとこと言ったら、風がドーンって抜けるシーンってあるでしょ。それがピタって合った時はめちゃめちゃかっこいいって思うんですよ。それとね、ギャラリーとか行って、すばらしい作品に出会ってわーって感動した瞬間って、僕の中ではどっちもいっしょ。フラットなんです。音楽も映画も演劇もアートもお笑いも、みんな生活のなかにおいてもっとフラットであることを伝えたいって思ってます。あとは、ファインアートとは違う、雑貨感覚でのアート・マーケットの確立ですね!


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