ACROSS Street Fashion Marketing

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レポート
2003.10.06
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中村貞裕/NAKAMURA SADAHIRO

(有)トランジット代表/マーケティングプランナー

1971年1月20日東京生まれ。血液型AB型。1995年慶応大学経法学部卒業後、(株)伊勢丹入社。MD統括部婦人営業部バイヤーを経て、B2Fにライフスタイル提案型の売場「B.P.Q.C.」のプロジェクトに参画する。
2001年3月に外苑前のビルの上層階の倉庫部分にカフェ「OFFICE」をオープン。その後、同ビルの1Fにカフェ&CDショップ、B1Fにはギャラリーを併設する『sign』、2Fにはイタリアンレストラン『caminetto』を手がける他、ファッション業界のプレスイベントを中心にケイタリング事業もスタート。03年、目黒に『office目黒営業所』をオープン。9月、「ホテルクラスカ」のマーケティングマネージャーとして、1Fの『Lobby』、2Fのギャラリー、4Fの客室部分の企画・運営を手掛ける他、「カフェ起業セミナー」や「ライフスタイル論」などのセミナーの講師、各種イベントのオーガナイザーなど、幅広く活躍中。

フツーの今どきの大学生だったんです

大学生の頃は、『Yellow』とか『GOLD』とかのクラブを貸し切ってパーティをよく開いていました。今言うとちょっと誤解されてしまいそうなんですが、ああいった軟派なパーティじゃなくって、音楽とかアート寄りのものです。いろんな大学生と交流するのが楽しかったですし、イベントを企画すること時代も好きだったので、パーティばっかりやってました。本当に、その時々を愉しむ今ドキの大学生でした。

就職活動もあまりちゃんと考えていたわけじゃなく、イベントやってたので代理店、企画するのが好きだからTV局、買い物が好きで先輩も多かったことから流通系では伊勢丹、といかにも大学生的なカンカクで、なんとなく就職先を決めていったんです。

ちょうどそのころ、藤巻さんが、伊勢丹の1Fに「解放区」というのをつくり、その絡みでTVや新聞の取材とかをよく受けているのを観て、かなり感銘を受けましたね。ものすごく熱い人で(笑)。僕も人を繋げたり、紹介したり、プロデュースしたり、そういう発掘して繋げて育てる仕事がしたいな、とその時思いました。自分はアーティストでもなんでもないということは認識してましたからね。ですから、伊勢丹というよりも、藤巻さんという人に憧れて、いっしょに働けたらいいな、っていうのが大きなきっかけだったように思います。

就職の内定が出たある日、たまたま広尾のカフェ・デプレで、東コレか何かの打ち上げ絡みで藤巻さんが飲んでいるのに出っくわしたんです。すかさず僕の方から話しかけて、「今度入社することになった中村と申します。いっしょに働かせて頂けたら嬉しいです」みたいなことをその時にアピールしました。

師匠・藤巻さんとの出会い

入社してすぐに配属になったのは、当時いちばん忙しいといわれていた「スライス・オブ・ライフ」という婦人服売場です。これが本当に忙しく、僕は朝から晩まで裏でストック整理。もう辞めようかと思いましたね。それが1年後、ひとつ上の4Fに婦人服のインターナショナルの売場をつくることになり、「スライス・オブ・ライフ」といっしょに僕も上のフロアに上がることになったんです。

その新しくできた売り場に藤巻さんがバイヤーとしてやって来て、僕は嬉しいことにアシスタントに。ファッションの伊勢丹ってよくいわれますが、伊勢丹に入社して本当にファッションに関れる人は10人くらいしかいないんです。僕はラッキーなことにそこに入れた。藤巻さんは、あの時自分が僕を引っ張ったって言ってるんですが、どう考えても、人事的にたまたまそうなったとしか思えないんですけどね(笑)。

まあその真偽はさておき、藤巻さんのおかげで、いろんなデザイナーであったり、取引先であったり、海外のアーティストであったりなど、僕自身の世界観のようなものが、そこですごく広がったように思います。彼の人脈をそのまま僕にも還元してもらえたことも大きかったと思います。
オフィスがテーマのカフェ『office』。
カフェで企画書を書いたり、ちょっと
した仕事をする人は意外に多く、その
時になくて困るコピー機やホッチキス
などの文房具などを装備。

クビになるつもりで、好きなことをやれ!

憧れてはいましたが、ファッションの世界に入ったら入ったでそれなりに大変でした。ある意味狭くて独特の価値観で動いている世界ですからね。今の時期だと、さらに1年後の秋冬ものの買付けの交渉。毎シーズン、新しく取り扱うデザイナーの名前を覚えて、ようやく覚えたと思ったら次のシーズンでは取り扱わないことになったりと、とにかく早い(笑)。無我夢中で走っているうちに、気がついたら入社5年めくらいになっていました。仕事にも慣れてきたこともあり、漠然としてギモンのような、不安のようなものが沸々と湧きはじめていた。そこで、ある夜、当時上司だった藤巻さんに相談したんです。

その頃、僕はプライベートで毎日藤巻さんの運転手をやっていて、というか、ものすごく忙しい人で、毎晩遅くまであっちこっちのパーティに出席されるじゃないですか。最後に横浜のご自宅まで送る車内くらいしかじっくりとお話ができなかったんです。僕の話を聞くと、藤巻さんはこう言ったんです。「おまえの気持ちはわかった。伊勢丹という会社は、よほどの不利益でももたらせない限り、社員を解雇したりしない。だから、クビになるつもりで好きなことをやれ!」。

今やりたいことってなんだろう、と考えた時に最初に思いついたのが、「パーティをやろう!」ということだったんです。ちょうど就職後に転勤などでバラバラになっていた大学生の時の仲間も東京に戻ってきてましたので、タイミング的にもちょうどよかった。そこで企画したのが、『rouge』というラウンジ形式のパーティです。当時は、自分的にもダンスフロアで踊るというより、緩やかな音楽のなかで、いろんな人たちと出会い、ゆっくりと座って会話を楽しみたいというのがあったので、場所もクラブじゃなくカフェを選びました。毎週金曜日の夜10時頃から朝まで。そういえば、当時『アクロス』さんでも取材して戴きましたよね。

そうこうしているうちに、気が付くと約5,000人分の名刺が手元に集まった。藤巻さんの新しい「B.P.Q.C.」というプロジェクトにも参画させてもらい、友だちのボンジュールレコードを誘致したり、内装やグラフィックなど、けっこうその時に、いろいろな人脈や思いをそこに吐き出すことができたように思います。

その後、藤巻さんが退社すると、いろんな意味で風当たりが強くなり。それまで自分を守ってくれてたものがなくなったわけですからね(笑)。時代的にも会社的にも、面白いことがなかなかできない雰囲気になってきたので、そろそろ次のことを考えよう、と真剣に思ったのが30歳のときでした。
外苑前の駅を出てすぐのビルの1Fに
オープンした『sign』。自分自身、
待ち合わせ場所によくCDショップを
活用していたことから、CDの試聴機
を併設。地下にはギャラリーも。
『office』2号店は目黒通り沿い。
店名は『office目黒営業所』。

「商売人」のココロ

もともと、漠然とですが、30歳ぐらいになったら会社を辞めようとは思っていました。実際に30歳になり、改めて自分は何がやれるか。そう考えた時に、やはり人を集めることかなあ、という原点に立ち戻ったんです。人を集めるイベントといっても、場所を借りて運営するスタイルにはいろいろな意味で限界を感じていたので、だったらハコをつくり、ふだんは飲食店として営業する収益構造にしよう、という考えに至りました。

場所は、外苑前にある父が借りていた古いビルの5Fの倉庫の再利用。さっそく企画書を作成したんですが、父といってもビジネスとなるとかなり厳しい。何度も練り直した末に承諾を得ることができたのが、「オフィス」がコンセプトのカフェ『office』です。

父は本当になんでも商売にしてしまう人で、たとえば調布にサッカー場ができるというと、さっそく現地に出かけていって、いちばんいい場所に建っているたばこ屋のおばあちゃんに「試合がある日だけ、店の前を10万円で貸してくれないか」と交渉。そこでお弁当の販売をする、といった具合です。嗅覚が鋭いんでしょうね。思えば、小さいころから「貞裕、今学校で流行っている歌手は誰だ?」とか「今学校で流行ってる遊びは何だ?」など、いつも質問されていたように思います(笑)。そして、いつも答えを用意している自分がいた。常に面白そうなものを見つける眼が養われたというか、クセはこの頃から付いちゃったんでしょうね。大学生の頃なんか「歩く東京ウォ−カー」とか言われてましたよ(笑)。

でも、商売とは、そういった情報を収集して企画書にまとめるだけじゃダメなんです。実利に結び付けなくちゃいけない。『office』が成功したことで独立。続いてCDの視聴機とギャラリーを併設することで、「待ち合わせ」というコンセプトを明確にした『sign』、イタリアンレストランの『caminetto』、それからケイタリングと手がけるうちに、少しずつ「商売人のココロ」も学んでいったように思います。
入ってすぐのロビーは、24時間営業の
洋書店とカフェが広がる。
基本的に躯体はそのまま再利用している。
モダンな内装はまるで欧米のデザイナーズ
ホテルのよう。
モダン×クラシックの外装は、周辺に
点在するオシャレな家具ショップにも
うまく馴染んでいる。

実は、予定外だったホテルクラスカと『Lobby』

何かの取材の時にも話したんですが、実は、僕が「ホテル・クラスカ」に携わることになったのはプロジェクトのかなり後からなんです。きっかけは、僕が今年に入り『office目黒営業所』をオープンしたんですが、ご近所さんということで挨拶に行ったことから。突然、t.c.k.w.の立川裕大さんから、「あ、中村君がいいんじゃない?」って言われて。聞いてみると、1〜2Fのテナントがまだ決まっていないので、その企画と運営をやってもらえないか、という話。

確かに、ニューヨークにあるソーホーグランドホテルやハドソンホテル、パリでいうとホテルコストとか、欧米には個性的な中堅ホテルがたくさんあるのに、東京にはまだあまりない。2003年問題なんかを背景に考えると、都市型ホテルのリノベーションってアリだな、とは思っていました。また、レジデンシャル中心という点も面白い、などコンセプト自体にはたいへん共感を覚えていました。

とはいえ、1Fといえばホテルの顔。カフェの経験はあっても、ホテルのロビーは自分のなかでも未知数だったので最初はお断りをしたんです。それが、何度となく話を聞いていくうちに、「実験的なプロジェクト」ということもあり、運営委託という形で引き受けることになったんです。

カフェ『Lobby』とドッグトリミングサロン『ドッグマン』、そして洋書店の『ハックネット』プロデュースによる『エッセンス』をテナントとして誘致。2Fはギャラリーです。ニーズはあったんだと思いますね。こういう遊び場を求めていたんじゃないでしょうか。客室9室という小規模ながら、海外からのアーティストを中心に予約でいっぱい。次は青山にもこういうホテルをつくりたいですね。渋谷でもいいいなあ。

「メイド・イン・トウキョウ」「ザッツ・ニッポン」へのこだわり

30歳で独立。35歳で5店舗運営。40歳までに、『ofice』のニューヨークとかパリ、ハワイとか海外に出店し、自分はニューヨークに留学する、という妄想を描いていたんですが、都市型ホテルのリノベーションという予定外の事業と出会い、今はがぜんそっちにも興味があります。今やりたいのは、さびれた温泉旅館のリノベーション。海外のアーティストが来日した時に、銀座とか六本木とかで一晩で20万、30万とくだらない接待に使うくらいだったら、熱海とか伊豆とかの温泉旅館にお連れして、ニッポンを味わってもらう方が絶対に嬉しいと思うんです。

昨年、ベルリンに行った時に、あるアーティストから「トウキョウにオフィスっていうカフェがあるの知ってるか?」と訪ねられたんです。すごく嬉しかったですね。そのお店があるから、その街に旅行に行く。それくらいのモチベーションになる、オリジナリティのある空間づくりにこだわっていきたい。けっしてマニュアル化できないもの。今の時代、人は、そういう「個性」に惹かれるんだと思います。


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