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レポート
2006.05.01
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箭内道彦/YANAI MICHIHIKO インタビュー

「ご機嫌取り」だった幼少期

さっき博報堂のマーケティングやってる人と打合せした時に、俺これ買ったんだってギブソンのギターを見せたら、今「仇買い」っていうのが流行ってるんだよって言うんですよ。ギブソンなんて10代、20代の時には、いつか手にしたいけど無理だなって思ってたわけじゃないですか。その頃の仇をとるように30代、40代が消費することをいうらしい。

テレビも近くで見ちゃダメだとか言われたじゃないですか、1日何時間までとか。そんなに厳しい家ではなかったんですけど、いっぱい見れなかったのが、今はいくら見てもいい。それがしかも仕事っていう、最高だなと思いますね。テレビ大好きなんです。

実家はお菓子屋と牛乳屋をやってて、遠足の前の日はみんな家に買いに来るから、おう、これ食うか、みたいにちょっと得意気になったりして。でも、実はうち貧乏で、国民健康保険に入ってなかったんですよね。医療費が全額になるので、医者に行くなっていわれて、家族全員行かなかった。だから虫歯がひどくて。初めて保険証をもらったのは博報堂に入ったときです。すごく嬉しかったですね。

そのお菓子屋の2階には中学1年生ぐらいまで住んでました。八畳一間にに一家4人。その頃の自分にギブソン見せたいなって思いますね。

小さい頃から家の手伝いをさせられてたんで、大人の機嫌取りみたいなのが得意でした。基本は「アンチ体質」。たぶん父親がそうだったんだと思うんですけど、選挙は行くけど自民党には入れないとか、みんな巨人ファンだから俺だけ阪神ファンとか。なんだか逆のことをやると安心するというか、逆のことやって目立ちたいってことではなくて、反対のことやるのがアイデンティティだった。

ご機嫌取りも意外と少数派じゃないですか。なんか少数派にいたかったんですよね。多数派の中で勝ち残る自信がなかったというか、多数派の中の1位になるのって大変じゃないですか。自分がよくわからなくなっちゃう。そんな思いがあったんで、みんなが文系か理系かって言ってる時におもしろい大学の選択肢はないかなって考えたら美大になった。でも3浪だし、まぐれですよ。

2浪目まではスーパー浪人生。どんな絵を描けば喜ばれるかっていうのを逆算して描くからものすごい巧くなって。浪人生なのに俺が描いてると人だかりができたりしてんですよ。一浪とか現役の子たちの。俺も得意気に描いてたりして、絶対受かるって高を括ってたら落ちた。その時、自分の絵には心がこもってなかったんだって気付いたんです。小手先で描いてたなって。

3浪目ともなると、もう1年やってもさらに小手先になるだけだから、ますます受からない。そう思って田舎帰ってお菓子屋を継いだんですよ、若旦那みたいな感じで。本当に描きたいって思ったら描こうって思ったんです。そしたら描きたくならなかったんですよね、1年間。でも一応共通一次の願書とかは出してたから、なんとか受けたんですが。

芸大の試験って9時から夕方の4時までで、ずっと1枚の絵を描くんです。僕は、朝8時頃家出て、常磐線で上野方面に向かったんですけど、なんだか常磐線に乗ってるときから脂汗が出てきちゃって。たぶん、1年何もやってないから急に不安になったんだと思うんですけど、急に吐き気みたいな感じになって、上野公園のベンチで休んでいるうちに9時半ぐらいになっちゃった。もう試験始まってるんですけど、10時までは入場できるので、受けないと親にも悪いし後悔するだろうなと思って、フラフラになりながら席に着いたんです。そうしたら席に着いた途端、吐き気が止まったんですよ。なんか急に無心になったというか。そのときは下手くそなんだけど、描きたい気持ちが溢れた絵というのがたまたま描けたんだと思います。だから、まぐれなんですよ。でも、まぐれを呼び込む努力とか環境づくりというのが必要なんだなって、そのときに感じたんです。

「ダウト(疑う)」と「ブレイク(壊す)」と「エスケープ(逃げる)」

芸大に入ったら、今度は芸術が嫌いになったんです。芸術からのエスケイプ。アンチっていうのは結局エスケイプですからね。その場にいるとその場が嫌いになるんですよ、俺。今は村上隆さんとかすごい頑張って、芸術っていうものがみんなのものになったり、わからないものじゃなくなってきたけど、僕らの頃はそうじゃなかった。当時、芸大で就職するっていうのは完全な負け組なんですよね。食えなくても俺は作りたいものを作っていくっていう宣言をみんなするんで。だから、僕は、いちばん魂を売った方にあえて行ってみたわけです。

自分のクリエイティブの根元にあるのは、「ダウト(疑う)」と「ブレイク(壊す)」と「エスケープ(逃げる)」って、この前NHKの『トップランナー』に出て本上まなみさんに話していて気づいたんですが、ミュージシャンって音楽を使ってメッセージをするじゃないですか。俺はそれが出来ないから、音楽以外のことでミュージシャンがやるみたいなメッセージを伝えたいんだなって。

実は僕、めちゃめちゃフォーク少年で、拓郎さんとか陽水さんが大好きで、本当はミュージシャンになりたかったくらいなんです。芸大の学園祭で白いギターに紙を貼って、そこにレパートリー3,000曲くらい書いて。昔の曲って10種類ぐらいのコード進行の組み合わせで大体歌えちゃうんですよ。いろんな模擬店に行ってどれでも歌うぞって。お客さんとかとみんなで歌って盛り上がったりして。けっこう有名だったんですよ、「白いギター」っていって。

博報堂を受けた時もそのギターを持っていって、部屋の隅に置いておいたんですよ、面接のときに。それ自体かっこいいと思ったんで。作品をプレゼンするんですが、プレゼン終わって、試験監督の1人があのギター何って言って。僕はうまい具合の展開があったら歌おうと思ってたんですよね。「焼肉の歌」っていう、高校の頃作ったコマーシャルソングみたいなものなんですけど。私はこれから焼肉を焼きに行くっていうだけの歌詞なんですけど、それを淋しい、さだまさしみたいなメロディに乗せた曲。

あれ何って言われて、僕は何でもありませんって言ったんです。こういう試験とかで、じゃあ歌いますって言うことほど気持ち悪いものないじゃないですか。僕は友だちみんなから個性的っていつも言われてます、みたいなのって嫌じゃないですか。すぐ歌ったら負けだと思いましたしね。歌えなかったら歌わなくていいやって思ってましたし。

何でもありませんって言って、何でもないってことないだろう、みたいな。嫌なヤツでしょ?それが子どもの頃からの大人との接し方。すごい嫌ですよね、だから俺友だちいないですよ。でも素直ですからね。2回断って、3回目は断るのやめようって思ってましたから。そうしたら、何か歌えるだろうって誰かが言ってくれたんですよ。いや、ちょっと歌は、みたいな。歌って、歌ってって言われるから、こういうところで歌うのはちょっと俺、なんかあれだし、別にいいです、ってぎりぎりまで遠慮したんですけど、いや、いいからどうせ遅刻してるんだし歌ってみろって感じで、じゃあすいません、ほんと1曲だけみたいな感じで。いきなり机の上に足ガンって乗っけてやったんですよ、「焼き肉の歌」。

そうしたら、箭内が歌って受かったっていう噂がばーっと広まっちゃって、次の年から芸大の学生がみんな何かやりだしたんですよ、ダンスとか、小話とか。完全に勘違いしてて。いっときますけど、僕は作品が、良かったんですよ。
入社1年目の箭内さん。会社の
デスクで(1990年)。

アツかった新入社員時代

入社は90年、バブル期です。最初の頃はすごく景気よかったですね。でも、キツかった。3浪してるから、弟より年下のやつと同期ですからね、俺。プロ野球はいいなと思いました、プロ野球は完全に年齢だから。しかも定年は早いわけですよ、みんなより4年も。だから、「広告」で何か一発当てたいっていう気持ちがあった。賞とか取りたくてしょうがなかったんですよ、かっこ悪いですよね。必死だったんです。泣けますよねえ、目指せADC賞とかって書いて机のヨコに貼ってるんですよ、バカですねえ。野茂に負けるな、ってここに。野茂と社会人同期なんで。

新入社員って自分の制作に自己評価みたいなのをするじゃないですか。俺は自分にキャッチフレーズつけましたとかって言って、俺大丈夫かな、これ文章にして、「フリガナのなくなる日」。「箭内」って難しくて誰も読めないから、フリガナをつけなくてもみんなが読めるように俺は頑張る、みたいな。だって野茂とかもきっとみんな読めなかったはずなのに読めてるってことでしょ。それぐらい俺も頑張ってこの名前を育てます、みたいな。今思うとあまりにも青臭くて恥ずかしいんですけど。

当時、大貫卓也さんが「プール冷えてます」という豊島園やってたりとか、すごい広告はみんなADC賞を取ってたりして、目標が分かりやすかったんです。だから、僕もADC賞を取ればいいんだと単純に思ってた。そうすればフリガナがなくなるんだ、どんどんおもしろい仕事が自分に来るんだって思い込んでたんです。でも、ADC賞なんて1度も取れないままここまできて、ADC賞コンプレックスみたいなのがどんどん膨らんでいって。

もともと芸大のデザイン科って、そんなにデザインを教えてくれないんですよ。鳥の絵描いたりとか、金箔の貼り方やったりとかして。今はそうじゃないと思うんですけど。まあ絵は全ての基本だから絵を描きなさいってことなんです。だから、入社しても、自分はデザインのこと何も知らないっていうコンプレックスがものすごくあって、入った部署がアメリカナイズドされたデザインみたいなものを志向している部署だったんで、余計ついていけなくて、デザインへのコンプレックスがどんどん深まって、ADC賞へのコンプレックスもどんどん深まっていったっていう、かなりダメな感じの6年余りを過ごしましたね。
97年から06年現在まで続いている
タワーレコードのポスターキャン
ペーン「NO MUSIC, NO LIFE」の
集大成本(マガジンハウス)。撮影
は写真家平間至氏。

「ひとり博報堂」設立

デザイン怖い、みたいな。本当にデザインが恐怖だったんです。そこからまたエスケイプ路線に行って、最初は草野球にエスケイプしてました。毎週毎週、草野球やって何の仕事もしなかった。神宮外苑とか、砧公園とかで。その後は仕事ちゃんとやらなきゃなって思うんですけど、俺はデザイナーに向いてないんだ、そういえば大学のときもアニメーションとか作ってたような気がするなとか。CMっていいな、ポスターよりって。俺の好きな音楽も流れるし、派手だし、食事も良さそうだし。よし、俺はCMプランナーに職種を変えれば多分花開くんだと。で、職種変えてくださいって申請したんだけど、それが4、5年通らなくて。

ようやく97年に希望が通って、名刺はCMプランナーなんですけど、自分で「ひとり博報堂」ってキャッチフレーズをまたつけた。デザインもちょっとはわかるからグループ作業をやめます宣言みたいなことをしたんですよ。それってかなりリスキーで、何の実績もないやつに仕事なんかこないんですけど。俺って、みんなに合わせるんですよね。

今は、例えばクライアントの要望とクリエーターの意見を合わせたものを10倍ぐらいに膨らませて結果的に1対1にしてしまうテクニックみたいなものを身に着けたのでやれるんですけど、広告のチームにいたときは、いい評価がもらえそうなものを出しちゃうんですよ、俺。こんな感じでどうですか、みたいな。それがよくないんだなって思ってた。当時は、他人とやってたら自分って出てこないんだなと思ったのが正直な理由です。

その頃になると、自分より若い人がADC賞をどんどん取り始め、追い越されると目指すぞって言ってるのはかっこ悪い。でも賞を取らないと仕事が来ない、みたいなコンプレックスは直ってなかったんですが、ある日、自分の使命は、賞とか何も取ってなくても楽しく仕事が出来るよっていうモデルケースをつくることなんだ、と思ったらすっかり吹っ切れました。それは実際にある種のパイオニアになってるんですよ。

離婚してもいいカンケイ

もうひとつ、パイオニアといえば独立もそう。それまでは、ビッグクライアント、例えばキリンさんとかホンダさんとかコカコーラさんとかをやって、しかも何かの最高賞も取って、そういう人だけが独立してたんです。押しも押されぬみたいな感じでね。先生になって独立するみたいな。そうじゃない独立のパターンって、実は僕が初なんですよ。そんなこと言ったらタワーレコードさんにもパルコさんにも失礼ですけど(笑)。

おまえんとこにトロフィーも賞状も1個もないじゃないか、なのにああいう風でも辞めていいんだっていうモデルケースが出来たので、博報堂もそれに気付いて俺を止めればよかったんですけど、見逃しちゃったんですよね。箭内やりたいようにやれって。これの後追いがいちばん多いみたいですよ、俺もって辞めてく若者が続出だとか。

最初は、「アンチ辞めたやつら」って感じだったんですけどね。アンチ佐藤可士和とかアンチ前田知巳、アンチ大貫とかね、博報堂は腰掛じゃないよ、と。おまえらが後悔するようなめちゃくちゃおもしろい会社にしてやるって思ってた。だから、社内報とかでも一生辞めません宣言とかした。でも、その数ヶ月後です、僕が辞めたのは(苦笑)。

ちょうどその時期にいろんな業界全体の動きがあって、電通がシンガタって会社をつくって、佐々木宏さんと博報堂の黒須美彦さんがいっしょになったり、媒体の枠を売買するのではなく、クリエイティブやアイデアを報酬として広告主から受け取る欧米型で少数精鋭のクリエイター集団が出てきたり。この動きを盛り上げたいなって思ったんです。

その先駆者にタグボートっていう会社があるんですが、あるとき社長の岡康道さんが、当時、自分たちはすごい意味があることをやった、業界が変わると思ったんだけど、振り向いてみると誰もついてこなかった、誰も追随しなかったって言ったことがあったんです。たしかにそれも失礼な話だなって思って。新しい会社が4つできるとしたら、もう1個足して5つできた方が業界が盛り上がるかなって思ったんです。だから、博報堂が嫌いになったとかでは全然なくて、離婚しても仲良しじゃないけど、まあそういう感覚で独立することにしたわけです。
同書の編者であるアジール・デザイン
代表の佐藤直樹氏をはじめ、浅野忠信
氏やみうらじゅん氏、黒崎輝男氏、片
山正通氏などとの「広告」をテーマに
した対談をまとめたもの。発行元は晶
文社。

モヤモヤとドキドキ

今思うとそういう時代だったのか、広告業界の人の動きが活発になって、会社に残っている人は辞めていく人に対して悲しんだり淋しがったりしてましたけど、それって全然間違っていて、本当は今とても役に立ってるんです。僕の場合も、博報堂にいた頃の自分よりいろんな人と仕事したり、いろんなものを見て、武者修行じゃないですけど成長して博報堂に返してるっていうか、博報堂の役に立ってるんで、もっと褒めてよって思うんですけどね。電通とも思ったほど仕事してないし、みたいな。ほとんどやってないです(笑)。

戻れって言われたら戻るかも、と思うときもありますよ。僕は博報堂にもっとこうすればいいのになって思うことがいっぱいあったんで、下の人間として。クリエイティブ、制作局を全部好きに変えていいよって言われたら戻る。そしたら給料下がっても戻りますね。

僕、意外と全体のこと考えてるんですよ。広告の進化とか発展が気になるんですよね。最近、つくる人がみんな疲れてるなって思うんですよ。広告代理店に入りたくてしょうがなかったり、CMの演出家になりたくてしょうがなかったはずなのに、なんかいつのまにか嫌だなってなってる。撮影なんか死ぬほど楽しいじゃないですか、ほんとは。それがそうじゃなくなってる人たちで溢れてるというか。そういう人たちが消えていけばいいんですけど消えないんですよ。

それには2つ理由があって、1つはそこそこ給料がいいから。給料悪かったら当然他の業界に行くんでしょうが、そうはならないから詰まっちゃってる。

もう1つは、実は簡単に作れるんですよ、広告って。すごくいい広告じゃなければの話ですけど。なんか写真撮って、文字入れるときにオレンジにするかピンクにするかで、別にそれなりにできちゃうんですよ。白い紙に何も生まれない恐怖みたいなのがないんですよね。だから良くないんだと思います。例えば、「不思議大好き」だったら「素敵大好き」とかって書いたらパクリって言われるんだったら「素敵愛してる」って書けばいい。なんとなく広告っぽいでしょ、それがちょっと危険だと思いますね。みんな「××っぽい」で満足しちゃってる。

よく、自分に出来ることを自分らしくやればいいんだとか、無理しなくていいんだとか、自分を壊したいです、とか、逃げます、みたいな話をするとすごく共感してくれるんです、特に若い人たちが。でも、そのときに危険だなって思ったのは、僕は基礎が出来ているんですよ。その後で、マズイと思って壊したんです。

『月刊風とロック』の秋ぐらいの号で使おうと思ってるインタビューで、miceteeth(マイスティース)っていうグループの人が言ってたんですけど、「型にはまらないと型は破れない」って。名言でしょ。型にはまることを怖がらないで欲しい。そのときにたぶん、どんどん溜まっていくと思うんですよ。いつか俺も、みたいな思いが。そういう意味では、僕は、博報堂にいた7年ぐらいの何やってたかわからなかった時期とか、浪人で3年間無駄に過ごしたのがある意味大事で。たぶん、僕が会社に入って最初におまえに豊島園との広告任せるよとか、自由にやっていいからパルコの広告つくってごらんって言われてたら、そういう人たち僕の周りにいっぱいいましたけど、その人たちはリバウンド力が溜まっていかないというか、すぐ広告が嫌いになっちゃうとか、今頃は辛い気持ちで広告つくっている人になってたように思いますね。

岡さんとか、佐々木さんとかもそうなんですけど、元営業だったり、雑誌の媒体担当だったりしてるんですよ。本当はクリエイティブにつくりたいのにつくれなくて、いつかはつくってやるっていうモヤモヤが10年ぐらい溜まってるんですよ。だから年取ってもモヤモヤがまだ残ってるっていうか。ただ、モヤモヤの最中で病気になったり死んじゃったりしたらもったいないので、それは要注意なんですけどね。モヤモヤは重要ですよ。それとセットであるのはドキドキですね。広告つくるのに疲れている人はドキドキしていない。モヤモヤしている人はドキドキするんですよ、ステージに上がらされると。
『mania 70's』(INFASパブリケー
ションズ)

僕が考える21世紀型の広告手法

世の中ってどんどん変わっていってるじゃないですか。人も気分も変わってる、商品も新しくなってる、でもそこに広告って付いて行けてないと思うんです。広告の作り方は80年代のつくり方のまま。言葉が右上にあるとか、同じじゃないですか、写真があってここに商品があるとか。せっかく新しい商品が出ているのに古い方法でやっている。2006年には2006年のつくり方というか、リアルタイムなつくり方っていうのが広告には入っていきづらくて、それがいちばん気をつけていることなんです。去年出したらつまらないんだけど、今年はアリとかね。来年見たらなんでこんなのが良かったかわかんないっていう、ある種、普遍的と逆のものをやっていきたいなっていうのがありますね。そうすると長持ちするっていうか、古くならないんですよね、自分のやっていることが。

今までって広告ってある種スタイルがあって、泣かせの××とか商品の××とか、それがピタっときた時代にその人がピカピカ光って、たぶん3年ぐらいで一生分を稼いで去っていくわけですよ。写真とかもそうだと思うんですよね。ゆるい写真のナントカとかね、情緒のナニガシとか、みんな寄ってたかって頼んで、俺の写真も青く撮ってください、みたいな。それでみんなポイ捨てするんですよ。そのやり方じゃない広告の歴史の歩み方みたいなのをやりたいなというか。

別に延命したいってことではないんですけど、世の中見ながら広告つくってたら自動的につくり方が変わってくると思うんですよね。そのときにやっぱりあんまりつくり方をカチッと決め過ぎちゃうと、結果的にその年のやり方にならない、みたいなことはある。時代を引っ張っていくっていう気持ちは全くないと思うんですよ、広告をつくっている人たちに。でも、時代に着いていくっていう気持ちもない。引っ張る必要は全然なくて、昔、仲畑貴志さんかなんかが時代の半歩後ろを行けばいいみたいなことを言ってて、なるほどと思ったんですけど、僕は半歩後ろじゃなくて並走できたらいちばんいいなって思うんです。世の中と並走しながら、いろいろ軌道修正しながら進んでく。かなりいっしょにつくらないと無理なんですよ、そうしないと転んじゃうっていうか、どっちかが諦めちゃう。それは相当大事ですよね、高度だけど。つくる側が距離をつくってるんだと思いますね。クライアントさんもそうなのかな。

そういう距離は博報堂を辞めたらものすごく縮まりましたね。箭内さん博報堂だから媒体もそこから買わなきゃいけないんでしょ、みたいなことがないじゃないですか。とりあえず何も決まってないけど昼飯でも食いますかby草刈さん(パルコの宣伝担当マネージャー)、とかね。そういうことが全然出来るわけですよ。電通さんなんかと一緒に打合せありですか、アリですよとか(笑)。

そういう「繋ぐ」じゃないですけど、「坂本竜馬的触媒」っていってるんですけど、せっかくいいものがいっぱいあるのに、それがバラバラになってたり、怖がりあってたり、見下しあってたりするのはもったいない。そこをグチャグチャにして繋いでいけたらおもしろいなって思うんです。ただひとつ問題なのは、坂本竜馬は暗殺されるんですよね、それだけはちょっと心配(苦笑)。
リアルタイムフリーペーパー
『月刊 風とロック』の記念す
べき創刊号(05年4月1日発行)
1周年記号となる06年4月号。
表紙はサンボマスター。
06年4月、豪華メンバーの集結により
開催された「風とロックフェス2006」。
チケットは即日完売で、会場は超満員
で盛り上がった。ちなみに、19日が風
の日で、20日がロックの日。

「中間メディア」といい関係

インターネットや携帯メディアの普及やTVのデジタル放送化、ハードディスクレコーダーがCMが飛ばせるようになったりなど、みんな「テレビCMの危機だ!」って言ってるんですけど、僕はテレビCM自体はなくならないと思うんです。みんなのTVにCMが飛ばせる機能が付いちゃうんだったら、当然、みんなが見たくなるCMをつくりましょうっていう流れが出来てくる。それはCMにとってはすごいいいチャンスだと思うんです。

一方でブログとか、僕「タダで広告してくれる人」って呼んでるんですけど、頼んでもいないのに、資生堂「ウーノ」の今回のCMやるじゃんとかって書いてくれるんですよね、日記で。昔だと口コミじゃないけど、僕らが広告つくるときに、オンエアした翌日の学校の休み時間にみんながその話してくれるようなCMを考えようよって言ってたけど、それより全然広がり方が大きいじゃないですか。知らない人のブログも例えば、「ウーノ」って検索すればみんなが読める。これはものすごいメディアの誕生だなって思いますね。


口コミは仕掛け人が必要だったり、仕込むじゃないですか。ブログは基本的に純粋にこっちが作ったものに反応するから、一般の見ている人と僕らつくる人の中間の人たち。評論家っていうと言い過ぎですけど、コメンテイター的な存在に近い。僕、テリー伊藤さんとか大好きなんですけど、本かなんかで読んだんですけど、ビール新発売おいしさ満足、みたいなCM流しても、今みんなおいしいって思わなくて、テリーさんが情報番組に出たときに、あのおいしさ満足っていうビールを飲んだらすげえおいしかった、って言ったらみんなおいしいって思うんですよ。


広告を裸のまま受け取るんじゃなくて、1回情報に噛み砕いてくれると、みんなすごく反応する。もっと言うと、代理店の社内でも、箭内の作った今度のCMすげえいいじゃんって言う人は少なくて、あれすげえいいじゃん、『広告批評』に載ってたじゃんって言うわけですよ。メディアに決めてもらえないと安心出来ない。僕は丸腰で素直だから全部言っちゃいますけど、賞なんか取ってないのに、僕が楽しげに振舞っていられるのは、そういった人たちのコメントとか、中間にあるメディアのおかげなんです。NHKの教育番組に出演したりするのもそうです。こんなやつもいるんだってみんなが知ったり感じたりして、そこから新しい仕事をもらえたり。それをパブリシティっていうとすごいいやらしいですけど。

また、若い人は名言を探してますからね、毎日毎日。今日の日記のタイトルを探してる。月刊『風とロック』で「名言」とかって取り上げているのも、名言があるとブログが書きやすいからなんです。

全てのことが紙一重で、それをこうやってあからさまにしちゃうと、この日本の文化の中では美徳とはされないというか。友だちがいなくなる理由はそこにあって、それって狙いだったんだねとか、箭内くんって言ってることと思ってることが違ってる、って言われたりして。だから、中学、高校、大学と居心地が悪かったですよ。みんなは全てをさらしだす友だちが好きじゃないですか。俺はどうしても二重構造になってたんです。

でも、その二重構造が悪くないじゃないですか、広告の世界では。ウソをついて騙したりしているわけじゃないですし。この仕事でよかった。たまたま芸術じゃない方って選んだだけなのに、これは最大のまぐれだなと思いますね。




[取材日] 2006年3月28日(火)16:30-18:30 @風とロック 事務所/インタビュー・文:高野公三子]


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