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レポート
2006.07.29
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D.J. Kaori インタビュー

PROFILE:14才からアナログ盤を集め始め、16才の頃から自己流でDJを始める。92年単身でニューヨークへ渡り、プレイしているところを彼女が尊敬するFUNKMASTER FLEXの目に留まり、彼が率いるBig Dawg Pitbulls唯一の女性DJとして迎え入れられる。これまでに 音楽界以外でもマイケル・ジョーダン、マジック・ジョンソン、マイク・タイソン等 スーパーセレブからも彼らのパーティでのDJ依頼を受けるまでに。
その後、ニューヨークのNo.1ラジオ局Hot 97にて日本人としては初のDJプレイを披露。アメリカ以外でも英国、フランスなどでも活躍。日本ではこれまでにDouble、安室奈美恵等のリミックスを手掛け、最近では歌手としても活躍中。04年リリースの DJ MIXCD「DJ KAORI's Ride Into The PARTY」、05年に発売したMIX CD「INMIX」と20万枚を超えるメガ・ヒットを記録。最新作は雑誌『BLENDA』とのコラボレーションでスタートしたMIX CDシリーズ「GIRLS NIGHT OUT」で大ヒット中。今では、そんな日本人女性DJとしての活躍だけでなく、ファッションセンスやライフスタイルなどが、10〜20代の女の子の憧の的となっている。

■DJ KAORIユSラジオプログラム紹介
「715」TOKYO FM(80.0MHz)毎週土曜日28:00-28:30
「715」と書いて「セブンフィフティーン」と呼ぶこの番組はNew Yorkと東京を行き来するDJ KAORIが薦める最新楽曲や、海外音楽シーンのこぼれ話などをお送りする番組です。この番組でしか聴けない貴重な音源やインタビューはもちろん日本のシーンでも活躍中のゲストも出演。まさにワールドワイドヒップホッププログラム。土曜の深夜、必聴のラジオ番組です。
尚、http://www.tokyofm-nyc.comでいつでも番組にログオン出来ます。

音楽オタク、ニューヨークに渡る。

子どもの頃から音楽が大好きで、ラジオとかチェックしてはテープに撮って何回も聴いたりするような、オタクな幼少期を過ごしてました。山に囲まれた田舎町だったんで他に何もやることがなかったっんですよ(笑)。洋楽に興味を持ち始めたのは小学校の高学年ぐらいから。それからは幅広くいろいろ聴くようになりましたね。

東京に出てきてからも基本的に「音楽オタク」バイト先はタワーレコードでした。92年に初めて行った海外がニューヨークで、ものすごく気に入っちゃったんです。当然、クラブにも行くじゃない? それはもう、みんなもの凄く盛り上がっていてすごい迫力。音楽で1つになるっていう感じだったんです。その頃の日本のクラブといったら友だち同士が集まってまったり喋ったりっていうラウンジが主流。サークルみたいなゆるーい感じっていうのかな。でも、ニューヨークはぜんぜん違った。ラジオをつけてもいろんなジャンルの音楽が24時間聴けたし、レコードも安いしね。そういう基本的な音楽を取り巻く環境が全く違ったことにカルチャーショックを受けたんです。もともと漠然と音楽の仕事に就ければいいなとは思ってたので、そのためにも英語を1年ぐらい勉強しようかな。最初はそんなシンプルな理由だったんです。そんな、ちょっと住んでみよっかな、っていう軽い気持ちの1年が、気づいたら10年になっちゃった(笑)。

「メンズ社会」での女性DJデビュー

留学先はマンハッタンにあるIAR(Institute of Audio Research)っていうPAになるための技術を学ぶコミュニティスクールです。もともと女の子が少なかったこともあり、変わり者扱いされてましたね。音楽の業界ってメンズ社会だったりもするじゃないですか、特にヒップホップとかはね。みんな思春期だし、やっぱりお互いにライバルみたいな感じになっちゃうんです。中にはすごいオープンな人もいて、いっしょに遊んだりする仲間はいしましたけど。音楽っていう意味では最初は少なかったなあ。

もちろん、当時は自分がニューヨークでDJっていう仕事でやっていけるなんて思ってもいませんでしたし、そもそもDJが仕事として成り立つなんて思ったこともなかった。ヒップホップは黒人の男の人がメインの職場だしね。ただ、音楽が好きだったので、学校に行きながらアルバイトみたいな感じで、ラウンジでレジデンスDJみたいな感じで1日BGMかけたり。そういう小さな仕事から入っていきました。

そのうち何人か日本人の音楽好きの友だちができ、DJマスターキーとかDJユキジルシとかね。そういう音楽仲間たちとクラブに行ったり、誰かの家に集まってはラジオをみんなで聴いたり、順番にDJをやったり。そんな音楽漬けって感じの日々をおくっていました。そのときの仲間たちには精神的にずいぶん支えられたっていうのはありますよね。

94年頃だったか、SOHOにある「MATCH」っていうヒップなレストランバーがあったんですけど、そこで毎週金曜日にDJするようになった。そこで何年かやってたら、だんだんいろんな人からパーティあるからやってみない?とか頼まれるようになってきたんです。最初はそこまででもなかったんですが、いろんな仕事をこなすようになってきたら、どんどん欲が出てきて。バイトや趣味じゃなく、職業DJとしての意識が芽生えたっていうのかな。

それからだんだんいろいろなクラブで回すようになって、その頃「N.Y.」というクラブでDJをやっていたら、たまたまニューヨークのヒップホップ界のトップDJのFUNKMASTER FLEX(ファンクマスター・フレックス)っていう人が来ていて、自分の事務所に入らないかって誘われたんです。断る理由はまったくなかったので、即OKしました。

その頃は、週4日、5日ぐらいDJをやってて忙しかったんですが、さらに、ヒルズ系、あ、ビバリーヒルズね、のパーティとかにも呼ばれるようになって大忙し。アーティストとかスポーツ選手とか。マイク・タイソンの家にも行きましたよ。ものすごい豪邸で、なんと家に大きなディスコがあるんですよ、「クラブTKO」っていうんです。「テクニカル・ノックアウト」の略(笑)。

アジア人というマイノリティを強みに

DJの仕事が本格的になってからは大変でしたね。そもそもちゃんと就職したことがなかったので最初の仕事がDJでしょ。もう、わかんないことだらけ。さらに英語でのコミュニケーションとか、いろんな意味で大変なことの方が多かったので、大好きな音楽を仕事にしているのに、楽しい毎日っていうより毎日大変っていう方が多かったですね。余裕なんてなかったですよ。毎回毎回行ったことないところとか行かなきゃいけないし、周りの人も全員アメリカ人だし、なかなか仲間にもなれなくて、語学もそこまで達者なわけでもないしね。DJもいっぱいいっぱいでした。唯一、励みになったのは、DJのプレイで会場が盛り上がった瞬間かな。

私がみんなに喜ばれたのは、ヒップホップとかR&Bだけじゃなくて、ダンスクラシックとか昔のソウルとかもレコード集めててよく知ってたので、バラエティに富んでたからだと思います。ヒップホップでもオールドスクールのかけ方とかいろいろあって、「ルーティーン」っていうんですけど、そういうのをいろいろなDJを聴いていろいろ勉強しましたね。そこから自分なりに工夫して自分の好きな曲を入れたり。最初はやっぱり見よう見まねです。自分たちのカルチャーじゃないですしね。その中からだんだん自分の好きなものが見えてきたっていうんでしょうか。

アジア人っていうことで、黒人とも白人とも違う音楽的感性というのもあったんじゃないかな。聴いてきたものが違ったりとか。そういう意味では、どっちでもない分、どっちのこともわかるっていうか。やっぱりニューヨークのような大都市でもまだまだ人種が分かれてるっていうのはあるんで。同じヒップホップというジャンルのなかでも人種によって盛り上がる曲とかが微妙に違ったりするんですよ。そこは、私はもともと外国人だから、いろんな人種の人が盛り上がれるツボを肌で分かっていたっていうのかな。アジア人でよかったと思いますね。
Def Jam/Def Soulレーベルからリリース
されたクラブ"ハーレム"オフィシャルCD
第2弾(2000年6月)
2003年3月にリリースされた
"Dj Kaori's Def Jam Mix"

「9.11」後の選択

90年代ってアメリカは景気が良くてある意味バブルだったんですよ。毎日のようにシャンパンがタダ、キャビアやトリュフが溢れるオードブルいっぱいのバブリーなパーティが毎晩のように行われてて、ヒップホップ業界もバブルだったし、音楽業界だけじゃなくて社会全体の景気が良かった。いろんな企業やアーティスト、セレブたちがとにかくパーティ、パーティ、パーティ。ロングアイランドやハンプトン、ちょうど日本でいう軽井沢みたいな感じかな、大体金持ちはそういうところに別荘持ってて、そういう場所では毎週末パーティでしたね。私なんかDJで雇われてるだけなのに、家にストレッチリムジンが迎えに来る。お金が余りまくってたっていう状況です(笑)。

そんなバブルな時代は97年から2000年ぐらい、テロ直前まで続きました。9月11日、あの日私はちょうど仕事でサンフランシスコ行きの飛行機に乗ってたんですけど、離陸後1時間ぐらいしたら「着陸します」ってアナウンスが流れたんです。あれ、もう?って思ってたら、エマージェンシーだからって言われて、とりあえずセントルイスで降ろされた。でも、そこから飛行機は飛ばないっていうから、これはヤバイぞって慌ててホテル取って、そこで初めてあの映像を見ました。ショックでしたね。その後ももちろん飛行機は飛ばないから、結局アムトラックで現地入り。ニューヨークを発ってから3日後でした。帰りも1日半ぐらいかけてニューヨークに帰って来たんですが、家がワールドトレードセンターの近所だったからそのエリアに入れなくて、知り合いの家とかで暫く過ごすことになった。

社会情勢も経済も人々の気持ちも一気に変わった。会社もいっぱい潰れて、レイオフされる人がすごい出て。もちろん、パーティとかもなくなり。ほんとうに何もなくなった。そんな感じでしたね。

そんな何もかもが変わったことで、自分の人生を初めて見つめ直したっていうんでしょうか。その後、少しずつクラブが復活し始めたある日、DJをしながら、ふと思ったんです。ニューヨークっていう現場でDJを10年近くやってきたけど、来年もここでやってるのかな。そう思ったら、急に違うことがしたくなっちゃって。考えてみたら、それまでは同じ経験の積み重ねだった。そこにスタックしちゃう自分がいたことに気づいたんです。もっと違うこと、もっと自分がチャレンジできること、夢中になれることっていうのを考え始めたんです。

ニューヨーク中のクラブはもちろんのこと、マイアミやLA、アメリカのほとんどのクラブで回したし、ヨーロッパも仕事で何度も行った。そろそろ、次のチャレンジしたいなって思ったんです。人間、何かを追いかけているときの方が楽しいっていうか。ある程度いくと守りに入っちゃうじゃないですか。それより、常に上を見ている方が楽しいし、自分なりの目標を追いかけていたい。下を見ると恐いしね。そうしないと周りに惑わされたり、周りの評価とかも気になってくる。そんなこといってたら長くやっていけないですもんね。

そんな気持ちに変化が出てきた時に、たまたま日本でCDを出す話があったんです。最初は東京に1週間滞在し、2回目は2週間と滞在日数が増え、1年に1、2回のスタンスでしか日本に来てなかったのが、2回、3回と増えてきた。じゃあ、思い切って日本に拠点を移そうか、いや、でも、今ニューヨークで問題なく食えているのに、日本に戻ってうまくいかなくなったらニューヨークでの仕事もなくなっちゃう! とか、ものすごく考えましたね。1年、2年、悶々と過ごしてました。

でもまあ、イチかバチかっていうか、一生懸命やればきっといい結果も出る。そう思って、2003年、まずは東京でも部屋を借りることにしました。営業もしっかりやらないといけませんしね。おかげさまで仕事も次々と頂けるようになったんですが、そうなってくると、今度はニューヨークからたまに日本に来て仕事するというスタンスだと限界があるっていうか、ある程度腰を落ち着けないとダメだな、って思うようになってきた。日本国内のツアーもしっかりやって、ちゃんとプロモーションもしたい。日本の人たちにももっと自分を知ってもらいたいっていう気持ちが芽生えていったのも事実です。

そして、去年、東京のマンションを広い部屋に引越し、ニューヨークの方を小さくて安い部屋に引っ越し、ようやく日本とニューヨークの拠点が逆転しました。

マイノリティ・パワーの時代

今思うと、あの時代に、ヒップホップという音楽に出会って本当に良かったなって思いますね。だって私がDJ始めたころの「MATCH」では、ヒップホップをかけちゃいけなかったんですよ。白人のちょっとハイソで高めのラウンジ系のクラブだったから。トレンディな店ではヒップホップなんてかかってなかったし、誰も聴いてなかった。94年ってそういう時代だったんです。それが、バッドボーイとかが出てきたりして、ヒップホップがどんどんメインストリームの音楽になっていった。結局2000年になったらビルボードのチャートが全部ヒップホップですよね。

そういう特殊な、ストリートなライフスタイルの人、ストリートカルチャーが好きな人だけの音楽だったのが、90年代が過ぎたら、一気にメインストリームの音楽になっていた。なんかそういうエナジーがあったんだと思いますね。アーティスト、人種の持っているパワーもそうだし、音楽の持っているパワーが時代とマッチしたっていうか。ヒップホップって音的にもポジティブですし、マイノリティを前向きなパワーにエクスチェンジするっていう部分も最初の頃はあったと思いますね。

マイノリティな立場の人って大体いじけて終わるわけですけど、それを前提にそこから表現していく、そういう部分を全部打ち壊して自分のことをアピールするわけだから、そこにこめられたメッセージってすごい前向き。他人がどう言おうが俺は最高だぜ的な(笑)。私もニューヨーク行って嫌な思いもいっぱいしたし、英語も喋れなくてみんなから「HA?」みたいな顔で見られたり、そういう悔しい思いをすることが日常的にたくさんありましたから、ヒップホップ・ミュージックにはずいぶんと助けられましたね。
大ヒットした洋・邦アーティスト収録の
ミックスCD第1弾(2004年3月)

「MIX」の時代

日本でも、最近は若い子もビヨンセだとかブリトニーとかシャキーラとかずいぶん変わってきてますよね。昔は洋楽ってなんとなく敷居が高かったイメージがあったけど、今は洋楽も邦楽も混じってすごく幅が広がってる。インターネットとかもあるし、情報もダイレクトで入ってくるし。そういう意味で世の中変わったなっていうのはありますよね。それは世界中どこでも同じような現象が起こっていて、ニューヨークでも、ヒップホップをベースに、ロックやハウス、パンク、テクノ、ニューウェーブとかオールジャンルのものがミックスして新しい時代の音楽へと変化している。

ただ、これも全世界的に共通しているような気がするんだけど、ヒップホップとかR&Bがクラブミュージックだった時代は、好きな人は自分で情報集めたりとか、本当に好きっていう人が多かったけど、今はメインストリームの音楽になった分だけ、ラジオとかテレビでかかっているものを流行ってるからそのまま聴くだけっていう受動的な音楽ファンが増えているような気がしますね。

メインストリームになった分、音楽を掘り下げなくなったっていうのかな。好きなアーティストとかがいたらもっと掘り下げて、その人が影響を受けたミュージシャンとか、プロデューサーとか、同時代の曲とかいろいろ聴いて、もっともっと音楽を好きになってほしいなって思いますね。「MIX」の意味は最大公約数じゃないんで。
2005年10月にリリースされた
"Dj Kaori's Inmix"

プチ・バブル期に入った東京のパーティブーム

この1、2年は、日本でもブランドのパーティをはじめ、いろんな企業や団体がパーティを催すようになっています。私もルイヴィトンとかコーチとか、ゴールドマンサックスとか、いろいろな企業のパーティにDJとして呼ばれてプレイしました。顧客向けやプロモーションベースのものだけでなく、外資系の企業に多いんですが、そこに働く従業員やそのファミリー向けのものもずいぶんと増えている。ベルファーレのような大箱を貸し切ったものからヒルズのスイートっていうプライベートなものまで実に規模もさまざま。昔だったら居酒屋で宴会っていうノリだったんでしょうけど、スタイルがずいぶん変わってきている感じがしますね。

日本に拠点を移してからはぐっと仕事の幅が広がりました。CDのリリースをはじめ、自分で歌を歌ったり、曲を作ったり、他のアーティストをプロデュースしたり。ラジオとかのレギュラーもやらせて頂いてます。ニューヨークにいたときはラジオとかはスペシャルオケージョン、ゲストでDJさせてもらうっていうことはあってもレギュラーは無理でしたからね。言葉の問題があって。そういう意味では、ニューヨークでの10年はいっぱいいっぱいだったので、これからはもっと余裕を持って仕事をしたいなっていうのはありますね。

リスペクトするアーティストは、実はマドンナです。ストイックで強くてビジネスも出来て、そういう強い女性に憧れますね。10年、20年とトップでいるっていうのは半端じゃないことだと思うし、自分がそんなストイックにやりたいかって言われたら別問題なんですが、10キロ毎日走ったりも出来ないですしね(笑)。瞬間的に出せるエナジーはあっても、それをキープしていくって並大抵のことじゃない。しかも、大人になってもキュートで、精力的で、年とればとるほど素敵になる人ってなかなかいない。まだまだこれからなんでもっともっと頑張りたいですね(笑)。


[取材場所:DJ Kaori所属事務所/インタビュー・文:高野公三子]


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