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2007.02.13
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清野玲子/Kiyono Reiko インタビュー

有限会社ダブルオーエイト・有限会社カフェエイト 代表

1968年7月28日東京生まれ。グラフィックデザイナーとしてファッションブランド「TSUMORI CHISATO」、インテリアショップ「E&Y」、「TIME&STYLE」のカタログ、布袋寅泰プロデュースによるロックバンド「the autumn stone」のジャケットなどを手がける他、インディーズ映画『5 POISONS』 (Eiji Matsui 監督)のアートディレクション、「カフェエイト」と「PURE CAFE(ピュアカフェ)」の経営も行う、グラフィックデザイナー兼カフェオーナー、兼プロデューサー、兼マーケティングプランナー。社名の「ダブルオーエイト(008)」は「007」好きから命名。

「ビーガン」は生まれつきだったんです。

実は私、今までハンバーガーって食べたことないんです。中を抜いたやつは食べたことあるんですけど(笑)。子どもだから憧れるじゃないですか。そう思ってトライしたんですけど、中のお肉が食べられなかった。たぶん、動物性の脂の匂いにすごく敏感だったんだと思います。

牛乳も本当にダメで、給食はなかったんですけど、牛乳だけ出たんです。毎日、今日はどうやって克服するかというか、ごまかして飲まないようにするかサバイバルしてました。乳製品がダメというのではなく、牛乳を飲もうとすると牛肉の匂いがしてダメ。牛肉を食べようとすると牛乳の匂いがして食べられない。魚は好きでしたけど、それもかなり生臭くないもの、脂っこくないものだけでしたね。

そうはいっても子どものことだから、自分の嗅覚だけで判断してたと思うので、わりと匂いがごまかされているものに関しては食べていたと思いますね。たとえばシュークリームでも、生クリームが入っているやつは食べないけど、カスタードクリームは食べる、みたいな。よく食べていたのはピーナッツバター。トーストにたっぷり塗って食べるのが大好きでしたね。今思うと、足りない油分をそれで補ってたのかなっていう気がしますが(笑)。

母は私が20歳のときに他界したこともあって、あまり自分の幼少期のときのことを聞く機会がなかったんですけど、ある日突然父がポロっと「おまえは産まれたときからたいへんだったんだよ」っていう話をしたんです。どういうことかと訪ねたら、産まれて1ヵ月が過ぎたあたりから母乳を嫌がるようになり、じゃあ粉ミルクと思って飲ませようとしたらそれも飲んでくれない。困った母は悩んで、いろいろと試した末に豆乳でつくったミルクを与えたらごくごくと飲んだっていうんです。不思議に思って調べてみたら、母は肉が大好きで、また粉ミルクもほとんどのものがラードが含まれていたことがわかったんです。

つまり、私は、乳幼児のころからヴィーガン・フードを食べる「ヴィーガン・ベイビー」だったんです。それを知ったのはほとんど30歳、「カフェエイト」を立ち上げた後のことでした。

実はスポーツ・ウーマン!

小学生のころはスイミングスクールに通っていて毎日鬼のように泳いでました。セントラルっていうスポーツクラブで、最初はふつうのコースに入ってたんですけど、先生がこっちに移りなさい、こっちに移りなさいって、だんだん引っこ抜かれていって、知らないうちにアスリート系のコースにいた、みたいな。

あのオリンピック選手だった長崎宏子さんとおなじ年齢なので、よくあたったりしてましたよ。ジュニアオリンピックに選手として出場したりもしたので、うちの父親も夢を膨らませちゃって。もともとスポーツ好きの父親なんで、タイムを伸ばす為にいろいろなことを研究しはじめちゃって。あれ食べろこれ食べろとか。体が小さいし、筋力をつけなくちゃいけないから肉を食べなさいってすごく言われた時期もあったんです。でも、いろいろな過去のオリンピック選手の記録を読んだら、ある有名な金メダリストは完全菜食だったという記録が残っていたことがわかった。そうしたら、今度は野菜を食べろ、とか言い出して。野菜を食べるとタイムが伸びるらしいぞ、みたいな感じで(苦笑)。

ちょうど、自分でも身体的にもちょうど過渡期だったのか、突然タイムが伸びなくて苦しい時期。もちろんそのときは卵とかバターとか食べていたし、お魚も食べていたし、肉だ肉だってすごく言われていたので、母が調理する鶏肉だけはなんとか食べていたんですけど、あんまり父がうるさいから、野菜をたくさん食べるようにしたらタイムがスッと伸びたんですよ。たぶん、生野菜のサラダみたいなものをたくさん食べただけだったと思うんですけど、その感覚はすごくよく憶えていますね。単に暗示にかかっただけかもしれませんが。

結局、水泳をやっていたのは小学校5年生から中学2年まで。練習があまりにもキツすぎて、もう嫌だっていう感じになっちゃってインターハイの前に辞めました。だって毎日毎日、学校に行く前に早朝練習行って、学校から帰ってきたら夕方6時から夜11時ぐらいまで泳ぐんですよ。家に帰ってまた翌朝5時に起きて、という生活。レベルが上がっていくにつれて練習内容もキツくなっていきますしね。もう限界! もともと私はコンペティターじゃないんですよね、性格が。競い合うタイプじゃないからますます嫌で。やっぱり最後は気力、みたいなところがありますからね。自分なりにある程度そういう気質がないとこれ以上伸びないというのがわかってたんです。

上野、荻窪、戸越、浅草、いろんなところに住みましたね。もともと、放浪癖があるんです。

今やってるスポーツはサーフィン。一応年数でいうと延べ7年です、たいしてやってないんですけど。きっかけは、「カフェエイト」を始めたころなんですが、たまたまあるイベントがあって、湘南に遊びに行ったら、そこで何年ぶりかに友だちとばったり会ったんです。その友だちがサーフィンをやっていて、やってみればって誘われてやってみたらすごくおもしろかった。もちろん、初めは出来なかったんですよ、もみくちゃになっちゃって、ボロボロだったんですけど、それがすごく楽しくて。なんとなく、あ、とりあえず次の居場所ここだなって思って、2週間後には湘南に引っ越してましたね。

ちょうど、東京という街に疑問を感じ始めていたところもあったんです。ダブルオーエイトという会社は川村というもう1人の相棒と会社をやってるんですけど、いちばん最初に会社を立ち上げたときは、お互いお金がなかったこともあって、3LDKのマンションの端と端の部屋を居室、真ん中を事務所にしてたんです。それが、彼女が結婚することになったので当然、その家を出ますよね。私はしばらくそこに住んでいたんですけど、やっぱり1人で3LDKは広いし、ここに住む理由というものが自分の中に見つけられなっていた。じゃあ、東京で住みたいところは他にどこだろうって思ったんですけどどうしても思いつかなかったんですね。

もともと私はすごい放浪癖があって、いちばん最初に上京したときは上野の友だちの家に転がり込んだんです。たしか吉原に近かったと思うんですけど、それはそれでおもしろかったですね。その後は荻窪。その後戸越に行って、その後は浅草に引っ越して。浅草はかなり楽しかったですね。珍しく長くいたんじゃないかな。それから目白に引っ越して、その後代官山。会社をつくったのは港区三田、駅でいうと田町です。

基本的にはマンションがダメな体質で、ああいう鉄筋の箱が苦手なので古い一軒家やアパートが多かったですね。でも最近は建て替えるところも増えているのでなかなか物件がない。家賃も高いですし、どうしようと悩んでいたところ、湘南に行ったらピンときちゃったんです。20代は田舎から上京してきて、東京が本当におもしろくて、楽しくてしょうがなかったんですけど、ちょうど30歳になるかならないかのときだったというのもあるかもしれませんね。三田から移転してから7年間事務所があった東麻布もとうとう去年立ち退かなければならなくなり、ここ(祐天寺)に移転しました。

アートとは何か、人生の選択肢はたくさんあるんだよ、

水泳の他には、小さい頃からピアノを習っていました。教えてくれた先生がすごくいい先生で、当時私はちっともおうちで練習して行かなくて、練習してないのに1時間レッスンするのは無駄だから、じゃあ本がたくさんあるから、好きな本を読みなさいって言ってくれた。そこにはいろいろな画集とかがたくさんあって、エッシャーとか、いろんな絵があるんだっていうことを教えてもらいましたね。

ピアノは好きだったんですけど練習曲が好きじゃなかったから練習しなかったんですね、小学生でしたし。あまりにも練習しないから、何が弾きたいのって先生に聞かれてビートルズって言ったんです。そうしたら、翌週にはビートルズの譜面が用意してあった。好きな曲をやりなさいっていう考え方だったんです。あなたはリズム感がいいし、体を動かすのが好きだからドラムとかやったらいいわよって言ってくれたり。

今思うと、そのピアノ先生が私に絵というものを教えてくれて、描く絵じゃなくて、アートって何かっていうことを教えてくれたんです。自由に、自分が好きなことをやりなさい、選択肢はたくさんあるんだよ、っていうことを教えてくれたんだと思います。

その後、中学生になったらバンドに目覚めました。周りはちょっと年上の人ばっかりで、私はドラムとかやってました。当時はまだコピーでしたけど、高校生になってからはオリジナルを作って演奏してました、学祭とかですけど。

バンドブームの前かな。高校生のときだから20年前、80年代の真っ只中ですね。「イカ天」のちょっと前。いわゆるインディーズシーンっていうのが出来たのがその頃じゃないかな。もうちょっとダークでしたね。その後「イカ天」とかで明るくなった感じがしましたけど。

バンドをはじめた中学生のときは、将来はミュージシャンになりたいって思ってましたけど、才能ないだろうな、みたいな。高校3年生になって進路を考えたときに、音楽の学校に進学するという選択肢はなかったので、美術かなと。田舎だったし、当時は美術っていったら絵のことで、絵っていったらイコール油絵だと思っていましたからね。デザインっていっても一応そういう学科もありましたけど、洋服のデザインじゃないし、何をデザインするのっていう感じ。MACとかもなかったですしね。彫刻はあんまり興味がなかったし、そうやって消去法していったら油絵かなみたいなことになり、油絵学科に進学しました。入学してからは毎日絵ばっかり描いてましたね。

実は「女子大生起業家」だった?!

実家は繁華街のど真ん中。田舎でいう歌舞伎町のような吉原のような本当の繁華街で、映画が撮れそうなぐらいおもしろい人ばっかり。ヤクザとか、すごい人間じみたというか、ドロドロした、どっちかっていうと裏の世界、ディープな方ですね。当時は風営法も厳しくなかったので、例えばカジノとかもあったし、いわゆる博打とかもあったし、キャバレーとか、うちの周り全部そうだったんですよ。裏は日活ロマンポルノでしたし、その裏側が東映。夕方になると周りのスナックのママたちがカーラー巻いて出勤してきたりとか、お芸子さんみたいな人が歩いていたり、オカマちゃんもいっぱいいて、うちの目の前の通りは俗称「オカマ通り」っていう名前だったんですよ。

父はそんな繁華街の中で駐車場を経営していたんですが、あんまりよろしい土地柄じゃないってことで、ある日そこをやめて新しい仕事をするって言い出したんです。もともと父はバイクと山が大好きだったので、山奥でペンションやるとかバイク屋をやるとかいきなり言い出したもんだから、家族で猛反対。じゃあ、おまえだったら何がやりたいんだって聞かれたので、とっさに「輸入盤屋をやりたい!」って言ったら、じゃあ本当にやりたいならやってみろっていう話になり、タワーレコードの本社に電話して、「輸入盤屋さんをやりたいんですけどどうしたらいいですか?」って本社まで会いに行ったんです。それが18歳のとき。

笑えますよね。タワーレコードの人たちも笑っちゃってるわけですよ、子どもが来たから。とりあえず、悪いけど卸せないからって言われて退散。あとはパンクミュージックがすごく好きだったので、西新宿のものすごいディープなレコード屋さんくらいしか思いつかなくて、そこに行ったんです。そうしたらすごくいい方で、親身になって話を聞いてくれて、うちみたいな品揃えだと商売出来ないから、田舎でやるんだったら、もうちょっとヒットものとか入れた方がいいよってアドバイスをくれたんです。事情を話したら、僕がタワーレコードの知り合いに言ってあげるからって紹介してくださり、改めて会いに行きました。

当時はCDが出たてで、まだまだレコードが主流だったころです。フランチャイズって出店の条件が細かく決まってるじゃないですか、坪数がいくつでとか。うちは当然それをクリアしてなかったんですけど、CDだけでお店を運営してみるんだったらと、いう話になったんです。たった15坪でしたしね。要は全国にCDだけでレコード店を経営しているお店はなかった。そういうテスト販売をする店だったら卸してもいいですよって言われたわけです。もちろん、タワーの看板の使用許可なんてありませんでしたけど(笑)。

店名は「ブラックバス」。英語の辞書をパカッて開いてこれにするって決めたんですけど、すごい趣味の悪いお店だったような気がしますね、今思うと(笑)。さすがにお店づくりとかお金のかかるところはすべて父任せ。自分はどのCDを仕入れるかっていうことだけでいっぱいいっぱいでしたね。短大の1年生だったと思います。

でも、チラシとか看板とかは自分でデザインしました。ショッピングバックを作ったりとか。マネジメントはすべて父任せでしたが、売れてるかどうかは、まあなんとなくはわかりましたけど、それより自分の好きな音楽に囲まれていて幸せでしたね。父は大変だったと思いますけど。

ノウハウはすべてそれぞれの現場から学びました。

その後、私は短大を卒業してすぐ上京。輸入盤屋は人に任せたというか、飽きちゃったというのが正直なところでしょうか。私は、上京してすぐにタワーレコードでアルバイトをしながらレコード業界というかマーケットを勉強しようとやる気満々でした。

明らかに東京の音楽の傾向っていうか、当時は日本盤と輸入盤のマーケットが分かれていたので、その中でも売れ筋があったり、かなり違うんだなっていうことがわかりました。とにかく毎日大量のCDを見たり聴いたりするのがおもしろかったですね。タワレコは、ちょうど池袋店の立上げがあったときで、オープン前から入ることが出来て、それはそれで勉強になりましたね。

学生時代の友だちが何人も上京していて、写真やったりデザインやったりしていたんですけど、たまたま友だちからスタジオの電話番をしてくれる人を探してるんだけどバイトやらない?って言われて、スタジオでも働き始めることに。そのスタジオは、フリーのカメラマンの人が持っている小さいものだったんですが、場所がたまたまタワーレコードのすぐ近くだったんです。そうしたら今度は写真にハマっちゃって、すっかり音楽、レコードはいいかなみたいになっちゃった(笑)。

ただ現場をいろいろ見ているとかなりの肉体労働だし、タテ社会で大変そうだなとも思いましたけど、料理が好きだったんで、そういう撮影の仕事が多かったのも楽しかったですね。小さいスタジオでしたが、そこでは料理写真の世界があるということを知り、もともと料理好きでしたし、もっとそっちがやりたいなと思い、今度は料理写真の会社に入ったんです。そこは柴田書店のチーフカメラマンだった人が独立して立ち上げた会社で、外食系のコンサルティング会社とも仕事をしていたので、いわゆる作品を撮るだけじゃなくて、外食産業の裏側っていうのも見る機会がたくさんありました。

その会社が直接コンサルするわけじゃないんですけど、当時はファミリーレストランとかの全盛期。地方にも地方ならではのファミリーレストランのチェーン店があったりとかするわけですよ。そうするとメニュー写真ひとつで売上が全く変わってくるんです。もちろん、メニューの作り方、レイアウトやコピー、あと、しずる感をどうやって出すか、みたいなところをかなりしつこくやっていくわけです。

ファミリーレストランの写真撮影はずいぶんやりましたね。メニューは季節毎に変わりますから、シリーズで撮影します。そうすると、なんとなく食材の流通の仕組みとかがわかってきたり、一方では、一流の料理人の方たちの仕事を見ることも出来た。料理のことはかなり勉強できたんですけど、写真はやはり職人技。自分としてはそういう仕事に徹していくタイプじゃないな、というのを確認したりして。

撮影の現場にいると、アートディレクター(AD)っていう職業の人たちが来て、カメラマンに指示してっていうのを見て、自分で撮るよりそっちがいいなって思うようになった。それがデザインの方に進むようになったきっかけです。

その会社にデザイン部門があって、当時では珍しくマッキントッシュも完備していたので、ちょっとデザインをやってみようかな、みたいな気持ちになり、社長に「デザインやってみたいです」って言ったんです。

相棒との出会い

とはいえ、その後もまた、点々とするんですけど。デザインはデザインでもその会社だと料理にまつわるデザインしか出来ない。もっといろいろ、例えばCDジャケットとかもやりたいなって思うようになったので、いわゆるデザイン事務所に入った。そこでもいろいろ勉強できたんですけど、一度大きい会社に入ってみたいなって思って、ソニーミュージックに入ったんです。

というか、実は、当時スノーボードにハマっていて、毎日でもスノーボードやっていたいって感じだったんです。でもお金がかかるし時間も必要だし、どうしたらいいかなと思ったときに、給料が多くて有給がいっぱいある大きい会社に入ればいいやって思って、ソニーミュージックに入った。

有給取りまくってスノーボードばっかりやってましたね。それが25歳ぐらいのときなので、今から13年前。ソニーミュージックの関連会社のコミュニケーションズというところで、代理店的な仕事をしていました。ときどきソニーミュージック絡みの仕事もありましたけど、メインは広告のデザインです。

そこで今の相棒、川村と出会ったんです。彼女は当時ニューヨークのアートスクールを出たばかりで、日本に戻ってきて、SMCとすごく取引がある会社から出向で来てたんです。歳が同じだったということもあり、意気投合して、何かやりたいねみたいなことになって。

彼女は、ニューヨークのスクールオブビジュアルアーツに行ってたんですけど、当時はMTVの第一線のディレクターが授業を教えていたりとか、ゼミをやったりとか、自分が行っていた油絵ばかり描いている美大の世界とまるっきり違ったから、そういう世界を見てきた彼女の話やクリエーションに関する考え方がすごく刺激的でおもしろかったですね。そういわれてみればそういうことがやりたかったんだって思って、じゃあやってみようかみたいな感じで会社も辞めることになったんです。

二次元のデザインをやってるのがもう飽きてきたなっていうのもあって、商品開発とか立体もやってみたいなって思っていたので、2人で時間差で、あるライセンス会社に入社しました。いろいろな海外のブランドのライセンスを持っている会社で、そこで商品開発とかマーケティングとか、流通から売り場に至るまでっていうのを見ることができました。

デザインの仕事、いわゆるグラフィックデザイナーだと事務所の外に出ることが少ないじゃないですか。自分がいくらデザインをしても、それを末端の人が手にしたときにどう思われているかっていう反応はほとんどわからない。

だけどそういう物販をやる会社に入ってみて、自分が商品開発した商品が店頭に置かれたときに、果たして売れたのか売れなかったのかとか、いろいろな色を作ったときに、私は黄色とかオレンジとか大好きだから作ったんですけど、ことごとく売れ残ったり。マーケティングの勉強になりましたね。

ライセンス会社って、ライセンスをそれぞれのメーカーに売り分けるんですよ。その権利で儲けていく。メーカーさんが外にいて、帽子メーカーさんがライセンス会社が権利を持っているブランドの帽子を作らせてくださいっていってそこで契約をして、下からあがってくるデザインをチェックしたりするんですけど、それ以外に自分たちがオリジナルで作ったブランドに関しては、ブランドのコンセプトから自分たちで考える。いろいろ作りましたね。雑貨や小物類が多かったんですけど、Tシャツとかバックとか、小さなポーチとか、後はステーショナリーとか。全然売れなかったですけどやりたい放題やらせて頂いた(笑)。

独立、ダブルオーエイト(008)始動。

その会社には、1年半ぐらいいたでしょうか。さっき、彼女と出会った頃、私はスノーボードにハマっていながら大きい会社、ソニーミュージックで働いていたって言いましたけど、実はそれは、私の中のデザインや制作欲、クリエーションに対する情熱が冷めてしまっていたのと表裏一体だったです。

以前は確かにあったクリエーションへの意識が、クライアントの意向で自分の思い通りにならなかったりすることで薄れていったんでしょうね。デザインに対する評価は、日本の場合、とくにクライアントの有名無名でものすごく違ってくるんですよ。仕事の内容はさておき、有名なクライアントの仕事をしていると凄いクリエーターだっていう感じで捉えられることが多く、そういうのがすごくつまらないなとか思って、なんとなく行き詰まっていたって言うんでしょうか。

一応手先は器用というか、ある程度出来るから、あんまりデザインに対して思い入れをするのはもうやめよう、そう思って割り切ることにしたんです。そんなところにこだわっていてもあまりおもしろくないし。まあ、うちの父も自営業ですし、管理社会になかなかはまれないタイプの人だったっていうこともありますからね。いずれにしてもまた会社に勤めるっていうのが発想になかったので。もういいなっていう思いもあり、相棒と2人で会社をつくることにしたんです。1996年のことです。

最初の仕事は友だちとか、知り合いからのご祝儀仕事みたいなものが多かったですね。あとは会社のお金で学校に行かせてもらったことがあり、そのときの繋がりとか。実は、ライセンス会社にいたときに、これからはインターネットについて知っている人間が社内にいないとマズいですよ、と社長に言ってデジタルハリウッドに通わせてもらったんです。まだ開講したばかりの頃で2期生です。社会人用の講座としては初めてだったと思います。そうしたら、大手企業の次の担い手みたいな優秀な人たちがたくさん送り込まれていて、けっこうおもしろかったですよ。『日経デザイン』の編集長とか、NTTの開発の人もいらっしゃいましたね。

私たちも会社を立ち上げてすぐにインターネットとかホームページ関連の仕事に取り組んだので、そういった繋がりからWEBデザインの仕事をけっこうもらいました。しかも直で。代理店を通さない仕事が多くてすごくラッキーでしたね。日立さんとか、オムロンさんとか、ベネッセさんはかなりやりましたね。資生堂さんとかもやりました。

会社は今年11年目になりますけど、昔も今も基本は川村と2人です。もともと「ダブルオーエイト」っていう社名も、「007(ダブルオーセブン)」が2人とも好きで、そこは女だからっていうのもあると思うんですけど、会社として大きくすることには全く欲がないっていうか、何かが必要になった場合は、「007」じゃないですが、外部のプロフェッショナルとその都度組んで仕事をすればいいと思ってるんです。

常に楽しく、ちょっとユーモアもありつつ仕事をしていきたいというのがあったんで、最初の頃はちょっとお金が出来ると遊びに行ってましたね。平気で1ヵ月とか会社閉じてニューヨーク行っちゃったりとか。帰ってくると2ヵ月ぐらい誰からも電話がこなかったり(笑)。

遊びに行ってたんです、リサーチという名の。受身になってるだけのデザインじゃなくて、自分たちからクリエーションしていきたいっていう思いもあったので、ものづくりのエッセンスになるようなものには貪欲でしたね。

いちばん最初につくったのはガラス食器です。江戸吹きガラスの職人さんとのコラボレーション。それが28歳ぐらいのときです。何故吹きガラスかっていうと、1つから作れるから型をおこさなくていいし、大量につくらなくてもいいから在庫も持たなくていい。まあ、ライセンス会社で学んできた物販のノウハウみたいなところがあって、なるべくリスクは負わないようにする。しかも吹きガラスなんで、すぐ出来るんですよ。おじいちゃんたち、職人さんたちにこういう風に吹いてってお願いすると、1週間もすればちゃんと商品が出来上がるんです。

きっかけは、たまたまその職人さんと出会ったっていうのもありますけど、すごくきれいな食器なのにちょっとデザインとしてやり過ぎなんだよねっていうのも多いじゃないですか、工芸品って。惜しいなあ、でもすごくきれいなんだよなあ。でも、待てよ、と思っていろいろ勉強したら、そういう方法があるということがわかった。マーケットは、吹きガラス自体は工芸品としてしか扱われてないということがわかってきた。でも、本当はもっと魅力があるはずだから、それを私たちが企画してデザインして商品化をすれば、何かおもしろいことが出来るかもしれない。そう思って、デザインをして、とりあえず12型作ってもらってサンプルをかついでニューヨークに行ったんです。

1デザイン、1組ずつだったので、12個、箱に入れて藍染の敷物とセッティングしてパッケージして、カタログも作って。パッケージまでできたのは物販の会社にいたからっていうのが大きいですね。

最初はSOHOのオシャレな雑貨屋さんに持って行ったんですけど、その後それを見た他のお店の方が気に入ってくださったり、輸入の仲介をしてくれる人を介してだったんですけど、ニューヨークの高島屋から大量の注文も入ったんです。

注文は100組だったんですが、今度はつくるのが大変。職人さんが1客1客吹いてつくるので、形のばらつきも出てくるんですけど、おじいちゃんたちだから、こっちがOKでこっちがOKじゃない理由がわからない。毎日ガラスの工場に通って説明するわけです。東京の江戸川の方なんですけど、毎日行ってるのに、毎日顔を忘れられるんです。体験吹きガラスのお嬢ちゃんかな、みたいに言われたりして。いや、違います、ずっと通ってるのになあ、みたいな(苦笑)。水墨でデザインを描いて、相手がおじいちゃんたちなんで図面描いて持って行ってもしょうがないから、墨絵を描いてこういう風に作ってくださいって持って行って。全部に漢字1文字のネーミングを付けたんです。雲とか雪とか虎とかね。

他には家具もちょっと作ったりして、この来客用の打ち合わせ机もそのときの失敗作なんですけど。発注してみたら全然イメージと違っちゃった。後は照明を作ったり、いろんなものをつくりましたね。もちろん、広告とか映像製作とかもやってたんですが、気がついたら勢いで映画も作っちゃった、みたいな。それが29歳のときです。

今の自分の限界を見たような気がしましたね。

きっかけは単純で、CDジャケットのADをずっとやっていたんですが、あるアーティストに関しては、プロデューサーから、PVも好きな監督選んでそっちでディレクションしてつくってくれって言われたんです。そこで、あるビデオクリエーターたちといっしょに作ったんですけど、それがけっこうおもしろくて。最初はビデオマガジンでも作ろうっていってたんですけど、ネットの時代だからこそVHSだみたいな感じに盛り上がった。インディーズで作って青山ブックセンターとかでもちょっと売ったりもしたんですよ。

その監督といっしょにいろんなものをつくっているうちに、映画なんか作れたらいいね、なんていう話に。そうしたら、ある日彼がシナリオというか、自分で書いた脚本を持ってきたんですよ。それがすごくおもしろくて、やろうやろうみたいな感じで盛り上がっちゃった。どれだけお金がかかるかとか、どれだけ根回しが必要かとか一切考えないで、もうつくる気満々になってて。

とはいえ、映画をどうやって作ればいいのかなんて誰も知らないので、昔輸入盤屋さんを作ったときといっしょです。イマジカに電話して、映画を作りたいんですけど、フィルムはどうやって買ったらいいんでしょうか、って聞いたんです。あとは、どういうスタッフが必要なのかとかを映像関係者に聞いて、照明さんと、ビデオカメラマンと、音声さんを集めてきた。撮影は日活のスタジオでした。

上映イベント云々とかの費用も含み、制作費は結局800万円は越えたかな。ひとつだけ洋服のスポンサーはつけたんですけど、そこから頂いたお金は微々たるものですから、まあ大変でしたね。それが29歳の時だから、8年、9年ぐらい前ですね。

映画づくりはさすがにハマらず1回のみでした。本当に大変だったので。お金がないので時間をかけられないっていうのもあったんですけど、本当に映画ってありとあらゆるエレメントがひとつでも欠けたらダメで、1分1分、みんなの力を集中させて、瞬発力を高め、いいものを作っていく。移動の時間とかみんなのご飯とか、みんなのモチベーションだったりとか、本当にすべての要素がバランスをとっていかないといけないんです。しかも、気が付いたら自分がプロデューサーみたいな立場になっていたから、ものすごい頭も使ったし、気も遣ったし、金策にも苦労しましたね。何度ももう辞めた、っていってなりかかりましたけど、やっぱり大勢の人が関わってるから、途中で投げるわけにはいかない。そう思って、すごい頑張りましたね。肉体的ににも集中力的にも、これが今の私の限界なんだなっていうのが見えた。それくらい大変だったんです。だから、カフェをつくるって話が来たときも、映画に比べれば楽勝でしょうみたいな感じで引き受けることにしたんです。

「カフェエイト」オープン!

「カフェエイト」は、ある日、「タイム&スタイル」の吉田社長さんが、「清野さんだったら青山でどんな飲食店をやる?」って聞かれて「ヴィーガンフードのカフェをやります」って即答したことがきっかけでした。

料理関係の仕事が多かったのと私自身がもともと料理をつくるのが好きだったということもあって、取引先の方や友人などを事務所にお招きする宴会をたびたび行ってたんですが、吉田社長はその常連さんのひとりでした。

宴会の献立は私が決めるんですが、野菜ばかりのメニューはむしろ好評で、「こういうお店をつくったらいいのに」と言ってくださる方もいて。もちろんお招きした方々はベジタリアンではありません。

そのころ私はすっかりヴィーガンフードの楽しさにハマっていて、調味料で味付けされた上辺だけの味ではない身体全体で感じる美味しさというか、幸福感を他の人にも味わってもらいたいと思っていたので、よしやろう!と思ったのが7月で、10月にはオープンしてましたからメチャクチャですね、今思うと(笑)。

正直なところ、「カフェエイト」の話が浮上して私がやるぞってなったときに、川村には反対されるだろうなって思ってたんですけど、そうじゃなかったのには驚きましたね。ふつう、女同士でこういう仕事をして10年って珍しいってよくいわれるんですけど、私たちはもともとの性格とか趣味が全然違うから続いてるんだと思いますね。でもデザインとか、かっこいいものとかおもしろいものに関する尺度がすごく似てたり、興味を持ったことに対する瞬発力が近い。だから、どちらか一方がものすごくやりたいって言っても、もう片方がうーんって悩むようなことは一切やらなかったですね。それがカフェをやるっていうことでは合致した。

たぶん、ものをつくることとカフェのような場所を作ることって同じでは、って2人とも感じたんだと思います。映画を作ったり食器を作ったり、プロデュースをするっていう意味では全部同じ。カフェっていう何か全く違うメディアをプロデュースするような感覚で、あとは食に対して私なりに伝えたいことっていう思いがあったのと、実際こういうレストランあったらいいのにっていう潜在的なイメージがあったので、一気にそれを形にしていったという感じでしょうか。2000年10月のことでした。

その後、BSEのニュースが全世界を震撼させたのは2001年のこと。翌2002年には、牛乳や鶏肉など、動物性食品の安全性が問われる事件も相次ぎ、社会が食全般における安全性を急速に求めるようになっていきました。オーガニックやスローフード、ロハスといったキーワードの記事が雑誌でも頻繁に取り上げられるようになり、「カフェエイト」もずいぶん取り上げてもらいましたね。

その翌年の2003年には、アメリカのオーガニックコスメブランドの「AVEDA」が直営1号店の1Fのカフェ「PURE CAFE(ピュアカフェ)」をプロデュースしました。

ロハスとかそういうんじゃなくて、もっとふつうにたくましくありたいって思うんです。

最近でこそ、ベジタリアンやヴィーガンという言葉が知られるようになってきましたけど、実際にヴィーガンフードが食べられたり買えたりするお店はまだまだ少ないのが現状です。

マーケットの仕組みって、市場によってはものすごく押し付け型というか、選択肢がないことが多いんです。消費者はそのことに気が付いてないケースも。いってみれば外食産業って、その代表格じゃないかと思うんですけど、一見いろいろ選べてるようになっているようで、実はない中から選んでいるだけなんですよ。

やっぱり今、時代的にオシャレとか最先端とか、欲望をかきたてるクリエーションとかブランディングもあるにはあるんですけど、生活とか日常は、もっと、まあロハスとかじゃなくて、健康とか安全とかもっと人間としての本能的な部分に関心が集まっているんだと思うんです。今まで物欲の世界でずっとやってきた企業とかメーカーさんが、このままじゃいけないなっていうところで、もう一度ブランディングをし直し始めていている。

私も、食に携わるようになって気が付いたら7年も経っていて、いろいろなところでそれを見ていてくださった方たちから、今まで構築してきたものを生かしてくれないかっていうお話をいろいろと頂いているのは嬉しいことですね。おかげさまで、「カフェエイト」の出店のお話もいろいろ頂くんですけど、実はそれにはあんまりピンときてないんです。お店ってメディアなので、去年新しく青葉台に1店舗作ったんですが、自分のメディアということになると限界があるんですよね。だから、もしお店を作るとしたら、違うメディアを持っている人たちといっしょにやることで、もっと伝えたいことを伝えられたりとか、外部の人と関わることでもっと広がりを持ててたりとかが出来るかなと思ってます。

周りを見てマーケティングをしたりとか、情報を集めて分析したりっていう時代はもう終わりに近づいてきていると私は思っていて、ずっとこの何10年か、みんな情報に踊らされてきたと思うし、それはそれで必要だったとは思うんですけど、エコロジーじゃないですけど、本当に地球のためとか、人間が地球と共存していくためとか、ビジネスも動物の生態系の中に納まる必要があるんじゃないかな、とか本気で思い始めてます。より自然に回帰していくっていうか。まあ、実際に100%実行するのは無理だと思うんですけど、ただその発想とか、動物的なカンじゃないですけど、動物的な能力というか、動物的な本能というかを、もっと育てていかないといけないんじゃないかって。

今、生命力がなくなってきている気がするんですよね、自分も含めて。自分たちのおじいちゃんとかおばあちゃんとかってたくましかったじゃないですか。たとえば、「あるある大辞典」の事件があったら途端にものすごく右往左往しちゃったりとか。極端ですよね、反応が。それまでの番組の影響力とか、その後のみんなの反応を見ていると、健康ブームが来て少しはいい方向に進んだのかなと思っていたら、実は全然違うんですよね。

私たちが「カフェエイト」でやってきたことはマイナーていうか、マイノリティなことなんですが、でもコツコツやってきて、気が付いたら時代が後からついてきたみたいな感じでしょうか(笑)。今はたまたまオーガニックとかナチュラルとかいうところに市場が注目をしているっていうのもあって、いろいろなメディアに取り上げて頂いてますけど、ほんとうは全然そういうところとは違う次元で続けていきたいなって思ってるんです。



[取材日:2007年1月23日(火)20:00-22:00@ダブルオーエイト事務所/インタビュー・文:高野公三子]


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