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レポート
2007.05.15
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近藤三千彦/Kondo Michihiko インタビュー

株式会社スチューデンティービー 代表取締役

1970年7月10日広島県福山市生まれ。血液型O型。中学1年生の春、単身渡英し、英国パブリックスクール、ドーバーカレッジ(Dover College)に入学。17歳の時に、クロスカントリーの選手としてイギリスKENT州の代表の1人に抜擢。翌年、クリケットで日本人で初めて表彰される。
90年6月、同校卒業。翌年4月、関西学院大学商学部入学。92年4月に、日本クリケット協会の要請により同志社大学クリケット倶楽部のコーチに就任。93年10月にはFM大阪にてラジオ番組「学祭ウォーカー」を企画し、関西の大学学園祭情報を紹介。自らもコメンテーターとして参加し話題に。94年5月クリケット日本代表として香港に遠征を経験。
6月、学生向けの情報企画会社、ジェイシーエフ有限会社を知人と設立。取締役に就任する。大学4回生の後期試験前、阪神大震災発生。ボランティアの日々。97年3月、(ようやく)関西学院大学商学部を卒業。99年〜2001年には学生映画祭を、01年7月には学生ビジネスアイデアコンテストを企画・運営し、02年4月、株式会社スチューデンティービーの代表取締役に就任。学生デザインコンテストや、学生映画祭などを企画・運営する他、大学の学生課を窓口にした企業商品のサンプリング事業を開始する。
その後も、学生広告作品コンテストや学生携帯コンテンツ企画コンテストを企画・運営し、全国467大学のキャンパスに設置されるメディアを創刊。さらに、07年1月、全国1,278の高校内に配布するメディア『@sakura』を創刊し、現在3号目を制作中。

中学1年の終わりに父親からポンと
手渡されたパスポート

ひとり飛行機に乗せられ、イギリスの学校へ

中学1年が終わる前に、父親からきれいなパンフレットをポンと手渡されて、「イギリスで勉強するっていうのもおもしろいぞ」と言われまして。その写真がきれいだったので、わけもわからずに、イギリスのパブリックスクールに行くことになったんです。

父親が翻訳の仕事をしていて、イギリスの書物をメインにやっていたからなのでしょうが、イギリスにはパブリックスクールというものがある、男の子が生まれたらぜひパブリックスクールに留学させたいという思いをずっと持っていたようです。生まれる前から資料などを集めていたとか。13歳くらいで行かせないと、向こうの感覚や英語が身に付かないということで、そのタイミングで行って来るか、と。

イギリスへは、エアロフロートでモスクワ経由で行きました。いきなりひとりで飛行機にのせられて。ヒースロー空港では、日本人のガーディアンと呼ばれる保護者の方が待っていてくれて、そのまま一緒に行くのかなと思ったら、タクシーに乗せられバイバイ(笑)。2,3時間のせられて着いたのが、イギリスの南にあるフォークストンという町で、そこでホームステイしながら語学学校に数ヶ月間通いました。イギリスに着いたのが4月1日で、イギリスの学校は9月からなので、それまでに語学を勉強しておこうということで。

ホームステイ先では最初の2週間、お風呂に入れませんでした。ここはお風呂、と説明されたんですが、うまくしゃべれないし、他の人の家に泊まったこともなかったので、勝手にさわってはいけないような気がして。バスの乗り方も1回は説明されたんですが、よくわからないのでひたすら歩いて学校に通っていましたね。その途中にケンタッキーフライドチキンがあって、食べたくて食べたくて、そこでポテトを買ったのが、初めての買い物です。日本では、外食はさせてもらえなかったんですよ。ジュースなども一切だめで、コーラはイギリスに来て初めて飲みました。母が食べ物には厳しくて、基本的に自然食品。ソースとかも使わず、薄味だったせいか、イギリスでの食事も違和感がなかったですね。でも、すべてにおいて緊張してました。言葉がわからないので、相手の表情をみて、自分がどうすれば○で、どれが×なのか、と。それは今でも続いているような気がします。
イギリスでのパブリックスクールが最初の青春時代

全寮制のパブリックスクールライフ

7月に、最終的に通うことになるドーバーカレッジというパブリックスクールのテストを何度か受けました。算数は全部出来ましたが、他の教科は問題の意味がわからず、全く出来ない。英語が出来ないから、この子の実力はわからない、日本人も初めてだったので入れてみようということで、テストケースで入学できました。最初の年は英語が全然出来なかったので、1年目が終わって留年しました。ふつうはないんですけど、特別メニューを学校が作ってくれました。日本人はそのとき僕しかいなかったんですが、2年目に女性が1人はいってきて、それが実は今の奥さんなんです(笑)

学校は全寮制です。5学年で全校生徒が200人くらいでした。1クラス5〜10人くらい、20人というのはまずないですね。その分たくさん先生がいて。全寮制なので、先生は保護者代理なんですね。寮(ハウス)にはそれぞれ名前がついていて、ハウス対抗のラグビーの試合があったりします。最初は4人部屋、次の学年から1人部屋でした。今思うと寮生活をしたおかげで、みんなと本当によく語れた。みんなの意見、これをしたい、というようなことを聞けましたね。それが当たり前の環境でした。

おもしろいことにイギリスに行くと、自分は日本を代表してきたんだ、という気になるんですよ。日本についての知識は全然なかったですよ。歴史も知らないし。それもあとで恥ずかしかったんですが、海外の人って自分の国の歴史を、ものすごくよく知ってる。でも「日本人は?日本は?」と聞かれると、どうしても日本人であることを意識する。でもみんな日本を勉強してくれて、日本てすごいよね、と言ってくれたりする。いじめもなかったです。素晴らしい人たちがいた環境だったなと思います。

今思うと、スポーツが、パブリックスクールの重要な教えを占めていたんじゃないかと思います。日本みたいに部活でずっと同じことをやるんじゃなくて、9月から12月はラグビー、1月から3月はフィールドホッケーかクロスカントリー、夏はクリケットか陸上をやりました。クロスカントリーも、1人で走るというイメージですが、それぞれ個人の得点の合計で競う、というようにチームでするスポーツなんですね。ラグビーはもちろんそうですし、すべてはチーム。社会に出たら何をするにもチームワークは必要ですよね。勉強以外でも、すべては社会を見据えた上での教育なんです。みなさんパブリックスクールというと、きれいな、いいイメージを持たれてると思うんですが、結局はスパルタなんです。パニッシュメント、罰を与えられるのがすごく多い。ちょっとしたことで、「校庭5周走ってこい」とか、グランドの石拾いとか。そういうときは校長も必ず一緒に石を拾うんですけどね。ルールからちょっとでも外れたことをしたときや、言葉遣い、自分より体格の小さい人をいじめたときはものすごい罰です。毎朝点呼があるんですが、それに遅れても罰があります。少し前の日本のようなかんじですね。

最終学年には「キャリア」という時間が週1回ありました。先生とマンツーマンで、成績表も見てもらいながら、これがやりたいなら、こういう道があるよ、こういう学部があるよ、と将来のことを話し合う時間です。私は日本に帰ることを決めていました。そのころは日本語をほとんど忘れてしまっていたんです。将来は、商売をしたいと思っていましたね。イギリスのものを日本に伝えたい。イギリスで毎日音楽に接していたので、こんなかっこいい音楽は日本にはないだろう、ということで、日本に紹介するような仕事は出来ないか、とか漠然と考えていました。当時はマイケル・ジャクソンが出始めたころでした。そんなことを考えると貿易業、商社かなと思っていました。

両親が海外からの帰国生を受け入れてくれる大学をいくつか探してくれていて、関西学院大学に進みました。キャンパスがきれいで、先輩たちの表情がよかったから。学部は、当初の目的通り、商学部です。
何回も目を通している深江今朝夫氏の
『人が育つ』。僕の人生哲学そのもの
なんです。

志がない日本の大学生にショック

大学に入って一番感じたのは、なんでこいつら志がないんだ、ということでした。なんのために大学に来た、というのも一切語らない。大学の教授も評論家的に見えてしまった。自分の知っていることは教えるけど、あまり親身に相談にのってくれない。そのへんでショックを受けて、早く社会に出たい、と思ったんですね。自分の目で見てわからないことだけ先生に聞くようにしようかなと。なんでもいいからやってみて、肌感覚で、○か×かを決めようと。知ってるとやってるは、0と100の違いだといましたから。

他の大学がどうなってるのか興味津々で、とにかく人と会いたい、企画をしたいと思っていました。そこで惹かれたのが、学園祭です。学園祭は、学生がみんながんばっていたから。実行委員が生き生きとしていたんです。

学園祭で、それぞれの大学が協賛どりするために営業しているのを見ていて、ひとつの大学で来場者が1万人であれば、100大学あれば100万人になるなと。数が多い方が絶対にいいのではと思って、123大学をネットワークして、何月何日にどの大学で何をするか、といったことを全部とりまとめをする、そういう広告代理店の仕事をはじめました。2年生のときに、東京にいた先輩と一緒に、会社を設立しました。

学園祭を紹介しながら、そこで呼ぶアーティストの曲も流す番組をつくりたいということで、スポンサーを付けてFM大阪で「学祭ウォーカー」という番組をやったりしましたね。私は“学園祭オタク”ということでコメンテーターとして、出演していました。

みんな点でやっていたのを、線でつないでしまおうと。横のつながりもお互い出来るだろうし、ということでやっていましたね。
クリケット日本代表として香港に遠征中の
ワンショット(94年5月)

日本一忙しい大学生!

仕事以外もいろいろやっていましたよ。まず、クリケット。これは、パブリックスクールのとき一軍のチームに参加させてもらって、日本人で初めて賞ももらったので、それなりに日本でも広めていきたいな、という気持ちがあったんです。たまたま母親が、新聞で日本クリケット協会というのを見つけて連絡先をメモしてくれていたので、すぐに電話をして会長さんと話をしたら、関西では同志社大学で唯一サークルができているからそこを教えてくれないか、ということで同志社に毎週土曜日コーチに行くようになりました。いくつかチームを作ったり、東京に遠征に行ったり、ということをやっていて、初めて日本代表としてチームを作ろう、というときに推薦で選ばれて、香港に遠征に行ってきました。

サークルは、テニスサークルと、ボディビル同好会に入っていました。テニスサークルでは、関西のテレビ番組とかで、女子大生100人集めるというときに、1人500円で請け負って集めたりしていました。キャスティングですね。誰に声かければ何百人集められる、とか自分の中で引き出しを持っていて。千人くらいはいつでも集められましたね。ボディビルは、イギリス時代ラグビーで神経がおかしくなってた胸のリハビリのためなんです。ジムに通うとお金がかかるけど、ボディビル同好会なら自由にタダでマシンを使えるだろうということで。やってるうちにくせになって、体がこう、重たいものを求めるんですね(笑)。それで夜青果市場でバイトをしました。トレーニングしながらお金になると思って。夜11時から朝5時までです。帰って寝て、授業に出て、夕方からクリケット教えたり、夜はレストランバーでバイトをして、で11時から青果市場です。当時「日本で一番忙しい大学生」と雑誌で紹介されたことがあります(笑)。

日本の経済の原点は農業、とバイト情報誌で
見つけた長野の農家に泊まり込みで白菜づく
りに専念した。

阪神大震災、白菜作り、そして東京へ

大学4年生の時、阪神大震災に遭いました。僕の部屋だけたまたま何も被害がなかったんです。部屋の中はぐちゃぐちゃで、端から端まで冷蔵庫がとんでいたりしたんですが、お皿も1枚もわれていなくて。隣の下宿は潰れていたんですが。ちょうど風邪で熱を出していたときで、しんどくて地震の後また寝てしまったんですね。友だちが来て大丈夫か、と懐中電灯で照らしてくれたんですが、寝てるんで死んでると思われたみたいで。明るくなって、炎もばんばん上がってるし、まさかこんなことになってるとは思わなくて、すぐにカメラ持って写真を撮りに行きました。そのとき全てのライフラインが止まって、1月だったのでちょうど後期試験の前だったんですね。それで学生は試験はあるのか、いつ延期されるのか、といった情報が全然なく、まだインターネットがない時期でしたし、当時ダイヤルQ2というのがあって、それを使って情報を流すサービスをボランティアでしました。関西学院大学なら001をプッシュして、情報を聞く、というような。女子大生にナレーションをやってもらって、いろんな企業に協力をお願いして回りましたね。

卒業して何ヶ月か、農家にいたんです。長野県の小海町で、白菜作っていました。青果市場でバイトしていたので、その生産元に行ってみようと思ったんです。経済の原点は農業である、と勝手に思いこんで、日本も農業から始まったんだからその原点を見てみたいなと。モノが最終消費者に届くレストランで働き、それを扱う市場にもいたから、作っているところに行こうと。生産から、セリ市場まで、ひととおり見られました。大学時代やってた仕事はいったん卒業ということで辞めていて、自分の時間を作りたかった、ということもありますね。

農家にいたのは夏だったんですが、ちょうどそのとき、ダイアナ妃が事故にあったニュースが飛び込んできたんです。それを聞いて、やばい、今自分はここで何をしてるんだろう、と。農家にいるとそういう情報って全然入ってこなくなるんです。朝3時起きで働いて、昼寝して、夕飯食べて寝る、という生活なので。そのタイミングで、海外で大学を作るので留学経験者がほしいと声をかけられ、長野から東京に直行しました。

結局その仕事は資金繰りがうまくいかずストップしたんですが、元いた会社から戻ってきてと言われ、そのグループ会社の広告代理店に入りました。そこでは学生絡みの映画祭や、プレゼンテーション大会などを企画していましたが、自分が代表でやりたいという思いが強くなり、甘えをなくすために資本関係をなくして、全くひとりで会社を始めました。

「教育」ビジネスへのスタートは、ルートサンプリング

ひとりになったとき、何がやりたいか考えたとき出てきたのは、「教育」でした。
大学でなぜみんな志がないのか、と思った。ではそこを変えるには、自分がどこの立場にたてばいいのか。そういうことは前々から思っていました。そして、海外にいたとき社会貢献というものにふれ、関西学院大学では、マスタリーフォーサービス=奉仕という建学の精神に感銘を受けた。意外とそういうのを真に受けてしまうので、企業ができるもっとも自然な社会貢献は何かと考えたとき、若い人を育てることではないのか、と思ったんですね。それを株式会社としてやっていくにはどうしたらいいのか、と模索してきました。

ひとつは、メディアをつくることを考えました。webで学生専門放送局をたちあげようかと思ったけど学生にはまだまだPCは浸透していない。何かきっかけがないといかない。そのきっかけを作るのはリアルな世界、紙媒体だろうと。それを確実に行き渡らせるためには、各大学にオフィシャルに、先生の許可を得て設置できたらいいなと。ただ、大学生を振り向かせるのはなかなか難しい。面白いだけでなく、そこに将来への志であるとか、就社ではなく就職だ、といったメッセージ性を盛り込もうとすると、一歩間違えれば宗教だと言われてしまう。コンテンツについてはいまだに悩み続けています。

一方で、広告代理店にいた経験から、商品も先生から生徒に手配りしたら安全に行き渡るな、と考えて始めたのがルートサンプリングなんです。大学のクラブ、公認団体を通じて各企業から請け負って商品サンプルを配っています。だいたい大学の学生課が窓口になっています。学生課が唯一公認団体の連絡先を持っているので。その商品がほしいか、何個ほしいか、全部先生にお伺いをたてて、それを元にリストが届いて、トータル何万個、どの大学でできますよ、というのを企業に伝えるわけです。一番多いときで、45万個配りました。誰からもらうかというのにこだわったのがよかったかもしれません。小学校でも、肝油とか先生から配られたものは信頼しましたよね。

我々は全ての大学から確認書に印を押してもらい、企業に提出しているんですが、ここまで精度を高くやっているところは他にないですね。大学というのは非常にコンサバティブなところなので、人間関係を築いていって実績をつなげて今250大学に広げました。これが会社を救ってくれた仕事で、1年目でひとりで1.1億円の売上をあげました。2年目以降はマニュアルもできて、アルバイトでも1人で回せるようになったので、利益もあがってきました。
07年1月、全国1,278の高校に配布する
メディアとして創刊した『@sakura』。
現在3号目を制作中

これからの大学に求められるのは、「USR」だ!

大学生向けのメディアも続けてはいますが、もう少し柔軟なうちからがいいのかな、と高校生向けのメディアを作ることにしました。おもしろいことにそう思っていたとき、サンプリングで大学当局とやりとりしていて「どうしたらもっとうちの学校に来てもらえるのか」という悩みを聞くようになって。悩みを解決してあげるのが仕事だと思っていますので、どうしたらいいか考え、そうなったらメディアだろうと。しかもちゃんと高校の先生を通じてわたせたら最強だろうと。そこには右の道も正解、左の道も正解だよ、というメッセージも入れたいと思いました。大学選びの基準が、誰が決めたのかIQだけになってしまいましたよね。イギリスの時、社会に出たときにどういう活躍ができるか、とは言われても、IQというのはまったく出てこなかった。IQも重要かもしれないけど、心の知能指数、EQも大切なんだよ、ということを伝えたかったんです。そこで、右の道へ行ってもサクラサク、左の道へ行ってもサクラサク、という意味を込めて、『@sakura』という誌名にしました。

高校は、半年で1278校に許諾をとりまして、10万7千部流通しています。6万部が先生から生徒への教室内での手渡し、残りが教室内および進路指導室への設置です。学校とのやりとりで、何部どういった形で、というのを聞いて、それに応じて送っています。

『@sakura』の軸は何か。創刊してからもまだ悩んでいるんですが、ひとつは「USR(University Social Responsibility)」、大学の社会的責任です。企業であれば、株主とか、社員とか、ステイクホルダーはありますけど、大学も、生徒、父母、企業、地域住民、といろんなところとの関わりがありますので、その社会的責任をどうしたらいいのか、というのを大学もそろそろ悩み始めてきたんですね。USRはまだあまり浸透していないことばですが、非常に興味深いです。我々も「USR研究会」というのを作って、どんどん入っていこうと思っています。高校生も、これまで偏差値だけで判断していたのが、USR値というのができれば、大学の評価基準も変わって来るであろうと。何がしたいか、というのがゴールであれば、決してIQの高いところに行く必要はない。今短大も含めて1200の大学があって、たくさんの選択肢がある中の、この大学にしました、というのがないと、入ってからほかがだめだったからここに来た、と思ってしまう。でもそうじゃない、ほんとに選んで来たんだよ、ということになればいいなと。

フリーペーパーなので、収入はほとんどが学校法人からの広告です。高校生相手だとたいてい窓口が入試広報で、最初反応は今ひとつだったんですが、USRという言葉を出してきて、変わってきました。学長さんたちとお話しすると、目の色を変えてきますよ。

少子化ではありますが、学生数、大学の数とも増えているんです。大学への進学率も、今58%くらいで増えることが予想されるので、生徒の数は減らないと思います。ただ、大学の方は、USRをしっかりしておかないと、とんでもない人を社会に送り出しかねないし、そう言われてもおかしくない。今度取材する大学は、挨拶をさせる、ということに力を入れている。親の教育というのは必ず言われますが、「それを、うちがやらなきゃいけなくなったんです」と言っていました。人として社会に認められる人を育てたいと。全員が、人と会ったらまずあいさつと。ゴミ拾いを全員でやるとか。それに賛同してくれない先生は、全員辞めさせたと言っていました。それくらい、大学も必死です。

就職活動をしている学生に聞いてみても、自分の評価基準が、ほんとのベースの所にある人間性とか、そういったところが頭から離れてしまっている。社会ではコミュニケーションも必要で、ルールもある、ということを忘れています。社会に出ることを、早くから意識していってほしい。そうでないとどんどんニートも増えていってしまう。考える期間のニートだったらいいですけど、嫌だからというのでは困る。

今後は、『@sakura』を高校生ナンバーワンメディアにするのが目標です。これまでは「この学部ではこれが学べる」といったストレートな情報のメディアしかなかったと思うので、もう少し社会を見据えた、こういうことをやりたいときはこの学部、といったような“進路拡大情報マガジン”として発展させていきたいと思っています。

本当に今変わってきている時期なので、面白いんですよね。うきうきしちゃうくらい。もっとほんとに大学を焦らせたいんです。

社会人も、企業も、社会貢献という意味では若者を育てるって言うことに気づけば、すごくいい日本になるかな、と思います。



[取材日:2007年4月24日(火)11:00-13:00@株式会社スチューデンティービー会議室/インタビュー・文:神谷巻尾(フリーライター)]


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