2002.10.05
その他|OTHERS

馬場 正尊/BABA MASATAKA インタビュー

建築家/『A』編集長/ワークショップウェア取締役
代官山のレゾナンスのオフィスにて。
馬場さんの提案で、壁四面がホワイト
ボードという真っ白なブレストルーム!
東京は「サイクルスケール」だって僕は言っているんです。「フットワークが軽い感覚」っていうのが大好きなのと、「自転車の目線で見た都市計画」っていうのがあってもいいんじゃないかなと思いますね。自転車に乗るようになったことで、いかに東京の街が起伏が多く、ヒダの多い地形であることがわかりました。「自転車によるスピード感」も好きです。

また、こことここは近かったんだ、という電車やクルマでは味わえない絶対距離が見えるようになったのも、自転車のおかげ。確実に電車よりも早い。明治通りではフェラーリを追い抜いたことがありますよ。あれは快感でしたね(笑)。

建築家の職能って今のままでいいのだろうか?

小さい頃から、大きな橋の橋脚とかが好きで、今でいうロシアンアバンギャルドなどっしりとした建築物が好きだったので、将来は建築家になりたいって、漠然と思っていました。

早稲田ではいちばんデザイン色の強い石山修武研究室に所属していたんですが、町づくりや都市計画に関わるようになったり、同時にアトリエなどいろいろなところでアルバイトをするようになり、なんか違う世界というか、広い世界も見てみたいと思うようになりました。

当時は、東京中に派手な建築がつくられては壊される、というのをものすごく頻繁に目にしましたからね。最初は、建築家の都市へのコミットメントの仕方って、新しいデザインを次々と生み出していくことなんだ、となんとも思っていなかったんですが、そのうち「?」が沸々と湧いてきて、本当はそうではないんじゃないか、っていう疑問を抱き始めた。

「建築家の職能って今のままでいいのだろうか?」

そこからですね。模索の旅が始まっていたんだと思います。まあ、当時は20代前半で若かったですし、なんとなく建築業界のどこか閉鎖的な部分というのが気になっていましたしね。長い人生、一度くらい社会の大本流というか、消費の大本流みたいなところを一回見てみたいな、と思ったんです。僕らのような理系の人間からすると、博報堂とかって、そんなふうに見えたんですよ(笑)。

「都市博」が教えてくれた「建築オルタナティブ」

入社するなり担当になったのは、あの「都市博」。博覧会は1年間だけ出来上がる巨大な街をつくるのと同じ。都市計画がわかって建築やデザインがわかり、大学院も出てるから企画書も書けるっていうことで、即戦力としてポンッと投げ込まれたわけです。いろんなアイデアを思いついて企画するところから、企業に営業するところまでをやらなければいけない部署でした。

でも、バブル後の経済の波をもろに受け、「都市博」は中止。政治というか、世の中の仕組みというか、ものごとがどのように決まっていくのか、ということがよく見えた。最前線に触れることができたような気がします。東京都議会とかを固唾を呑んで見守ったのだって初めてのことでしたしね(笑)。

その時に強く思ったのは、既存の建築家という職業の人に仕事が来るのは、終わりの方、あらゆる物事の最後だということ。たとえば、こういう事業計画で、こういうテーマでこんなふうに人を集めましょう。じゃあ、デザインは誰々っていう建築家に頼むか、というふうに決まっていくわけです。僕は、建築家とかデザインは、根本から積み上げていくものだと思っていたので、現状を知ったときはショックでしたね。そこで、思ったんです。デザインとか都市というものに、もっと別のアプローチができないのだろうか、と。

「メディア」は決定的なパラメーター

大学院のドクターで研究したのは「メディアと都市計画、その関係性」。僕は「都市博」はメディアが潰したと思っているんです。臨海副都心という街は、いつのまにか誰もよく知らない間にどんどん埋め立てられてできていったわけですが、ある日、当時の青島知事がそれを問題視した途端に、一気に問題が噴出。新聞やTVとかが一斉に何やってるんだ!ってことになり、都市計画自体がぜんぜん違う方向に向いて行った。

それまでの都市計画は、与えられたインフラを着々と整備するものでしたが、そこにメディアというものが大きく介在するという、とても象徴的な出来事を見たような気がします。でも、よく考えてみると、街や都市計画、建築などが出来ていく課程でメディアが作用するということはとても重要で、これは新しいインフラだ、と思ったわけです。

当時は土地の価格自体がぐんぐん下がり、持っているだけで、ものすごい赤字が増えていく。でも、それがフジテレビが移転したら、必至に場所のプロモーションを始めた。「お台場ドット混む」とかね。「お台場」という街自体をメディア化、ブランド化していったわけです。そうすることによってまた人が集まりはじめる。たしか3年ほど前から、ディズニーランドの集客よりもんかよりも臨海全体の方が集客が増えている、というデータもありますよね。

都市の形成において、メディアが決定的なパラメーターになっていく姿を見て、はた、と建築分野を眺めてみた時に、ジャーナリズムはあっても、建築とメディアについて、ちゃんと考えたりされたことがないな、と思ったんです。その空白な部分を考えてみたい、ということで、大学院の博士課程に戻ったというのがオモテ向きの理由です(笑)。ほんとうは、経済のお風呂の中にどっぷりと浸かっていたので、アカデミズムと理論の世界に戻りたくなった、というのが正直なところかもしれません(笑)。
『A』vol.9/2000年に2回続けて
発行された「東京計画」特集

マイペースで贅沢な「メディア」をやろう!

大学2年生の頃から細々と作っていた200円のフリーペーパーの『A』を雑誌という形にして創刊したのは98年の7月25日。大学院のドクターに戻ってからです。始めたきっかけはシンプル。建築業界って、40歳で若手って呼ばれる業界なんです。20歳前半なんてまるでひよっ子。もともと建築雑誌は4つくらしかないんですが、そういう専門誌に掲載されるようになるのには、軽く15年から20年くらいかかる。長いなあ、と思ったんです。それだったら、細々とでも自分たちが思っていることをきちんと発言できる装置があれば、ということで、仲間たちと始めたんです。最初はワープロとコピー機のもの(笑)。その後、5号めくらいからはDTPの普及により、グレードアップしましたけどね。

「A」は、まずはARCHITECTUREの「A」、ARTISTの「A」、ADVERTISEMENTの「A」でもあり、ANONYMOUS「A」でもある。建築家やデザイナーや写真家などの仲間がバンドのように集まって、「現代や未来の都市」についての見解を提言するものです。最近はみんなそれぞれが仕事で忙しく、なかなか思うように発行できないんですが、まあ、マイペースで発言する贅沢なメディア、ということでこれからも不定期刊でやっていければと思っています。

「メーカー」になろう!

2〜3年くらい前からでしょうか。S社やM社などとお仕事をするようになり、僕はメーカーとディベロッパーに興味を持つようになりました。建築家ってソリューション提示型ですよね。誰かに依頼をされて、その人のために設計してデザインして完成させる。でも、メーカーとかディベロッパーって、問題提起型のビジネスなんです。

メーカーは、世の中の動きをみて、マーケティングして、感じて。そして、みんなこんなものを求めているんじゃないかな、っていう考えを商品にして世の中に問うてる。かっこいいな、って思ったんです。で、ふと思ったのが、「そういう建築をつくる人」っていない。そういう人になろう、と思ったんです。

沖縄につくった「ワークショップウエア」はメーカーのつもりなんです。チルドレンズミュージアムのプランニングやデザインをしているうちに、そこで使う家具もデザインしようということになり、せっかくだから商品化しよう、と発展。今はまだ試作の段階ですが、来年のミュージアムのオープンの時には販売できるようにする予定です。
『R-project』10月10日発売!
都市の「作り方」ではなく「使い方」を
海外の事例から検証した、新しい都市デ
ザイン学の本。
企画・製作「R-book」製作委員会
A4変形版/4C/160頁
定価1942円(税込 2000円)

「ディベロッパー」になろう!

一方、ディベロッパーって、こういう街をつくってみたい、っていうイメージがあって、こういう場所でこういう街をつくろう、って思うわけですよね。誰かがそういう思いを持っていて、それを形にするために建築家に頼む。ディベロッパーもメーカーも、直接何かをつくろう、というものづくりに対して、もう一歩前のところから始まっているんですよ。なるほど。じゃあ、「そういう建築をつくる人」っていいな、って思ったわけです。

そして「R-project」が始まった。「R」は、RETHINK、RENOVATIONとかRECICLEとかの意味なんですが、これは僕にとってはディベロッパーのつもりなんです。イデーの社長の黒崎輝男さんの呼びかけてスタートしたものなんですが、あるとき、イデーに外資系の投資銀行から相談があったんですよ。不良債券化したビルをすごく安くかったのはいいけど、やはり高くは売れない。デザインとかでうまくやって、価値を高くして売りたいんだけど、どうしたらいいかっていう依頼があったんです。

そこで、黒崎社長は、東京デザイナーズブロックに参加していたデザイナーたちに声をかけ、デザインの力で解決してみよう、っていう構想に発展していったわけです。大手の銀行から直接そんな話が来る。ふつうゼネコンじゃないですか。それ自体が面白いって思いましたね。また、不良債券っていう言葉に「ぴくっ!」って。遠い言葉だと思っていたのが目の前にやって来たわけですよ。2003年問題を踏まえると、都心の空室となったオフィスビルは確実に住居になる。アメリカでは「コンバージョン」といってもう一般化していますが、日本ではこれから。おお、ここにも建築家がコミットメントすることがあったじゃないか、って嬉しく思いましたね。


たしかに最終的にはデザインという手法で物事を解決するんですが、基本的なスタンスはかなりディベロッパーに近いんです。それを「ディベロッパー・アーキテクト」という言葉で説明しようとしてるんですけど、建築家っていうのが、そういう「職能」であるべきだな、っていう「?」がまたひとつ「!」になった。なんだか、心の中で10数年ずーっと思っていた「?」が、メーカーにしろ、ディベロッパーにしろ、ちゃんと向こうから「!」となってやって来た。

東京の街は「サイクルスケール」

10年くらい前に思っていたことって、30歳くらいになると実際にできるんだ、って思いますね。思ってたってことが実行できるようになるのと、きちんと説明できるようになる。そんな感じがしますね。まあ、まだ30代なので、「若手以前」ですから(笑)。もしかすると、40歳くらいになったら、やりたいことがもっと絞れてくるのかもしれません。今は拡散の時期。動きながら考えていきます。動きながらでないと気がつかないことってたくさんありますからね。そういう意味でも、東京は「サイクルスケール」なんだと思います。

[インタビュー:高野公三子(本誌編集長)]2002年9月


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