Who's who_052:SUZUKI NAO
2010.08.17
その他|OTHERS

Who's who_052:SUZUKI NAO

クリエイティブで持続可能な未来を考えたい!
〜独立系ソーシャルメディア「greenz」の編集長ってどんな人?


2010年2月に取材した「サードプレイスコレクション2010」でも登壇していたソーシャルメディア「greenz」の編集長の鈴木菜央さん。
「クリエイティブで持続可能な世界に変えるグッドアイデアを毎日伝える」をコンセプトに、ウェブならではのデバイス・ミックスで新しい感覚の独立系ソーシャルメディアを展開中。現在、丸の内朝大学の講師やニッポン放送の番組にレギュラー出演するほか、「green drinks」を日本での浸透をめざして活動するアクティビストのひとり。

 

クリエイティブで持続可能な未来を考えよう

  最近、「森合コン」というのが流行っているらしいですよ。枝打ちしたり、森できのこをとって、宿舎で一緒に料理して食事して、翌朝解散というコースらしいんだけど、それが驚くほど成約率が高いそうなんです。都会にいてコンピュータに囲まれて、という生活から、生命力があふれている森に行くと、いろんなものがはぎとられる。そうすると人間の本来の姿が見える、ということなんでしょうね。


  あと、「おたく文化」「環境」も、最近すごく近づいています。アイドルならぬ、「マイドル」というのがいて、お米を育てるアイドルとか。秋葉原でもメイドさんたちが、私たちにできるエコはないでしょうか、といって、打ち水したそうですよ。メイドさんがバーッといっぱいならんでやったら、人が集まって写真とって、また経済効果があって最高じゃないですか。あと、「萌え」をキーワードに、再生可能な素材でゴミ袋を作ったりしてるらしいですよ。 

 こういう、すごく面白いけど環境負荷が低い、っていうのってかっこいいですよね。そういうものをどんどん広げて、世の中を変えていこう、クリエイティブで持続可能な未来を考えよう、というのが、ウェブマガジンgreenz.jp(http://greenz.jp/)なんです。

 会社名のビオピオは、「バイオロジカルパイオニア」の略です。生態系というか「地球」をちゃんと感じて、わかって、とらえた上でのビジネスをする会社をめざしています。

 greenz.jpを打ち上げ花火として、サスティナビリティに関するお困りごと解決やプランニングやクリエイティブ、「サスティナブルコミュニケーション」と呼ぶビジネスに広げていきたいと思っています。メディアとビジネスを通して、持続可能な社会を作るのが目標であり、社会を変えると宣言して、ちゃんと生活を成り立たせる実験の場でもある、と考えています。

違う文化が家の中にあったので、常に複眼的にものを見るようになったような気がします

 
  バンコクで6歳まで暮らして、1982年に日本に家族で引っ越して来ました。中学1年の時に法律が変わって、日本国籍がもらえることになって。それまでカタカナの名前だったんだけど、いちいち聞かれたりするのがめんどうくさかったので、これを機に、母の旧姓の鈴木という性を名乗るようになりました。

名前のナオは、音だけは決まっていたんですけど、漢字はなかったので、小学校の頃、毎年漢字を変えてました。「直」だったり、奈という字を使ったり。それも飽きて来たので、知り合いの占い師に相談して、「一番結婚運のいい名前を」といって選んでもらったのが、今の「菜央(なお)」なんです。絵を描くのが好きで、菜っ葉の黄緑色とかが好きだからいいかな、なんて深く考えずに決めたんですけど、今greenzをやってるから、何か縁があったのかもしれないですね。

 両親はそれぞれ別のバックグランドがあるので、全然違う文化が家の中にありました。例えば、母と僕が日本の新聞を読んで、こういうニュースがあったね、と話していると、イギリスの新聞には全く違うことが書いているんですね。ものの見方はひとつじゃないんだ、と常に複眼的にものを見るようになったかな、と思います。

 自分は、いったい何者で、どこに属しているんだろう、という思いもありました。田舎もないし、いったいどこに戻るんだろう、と。自分は日本人だと思っているんですけど、多くの人の感覚の日本人、というのとは外れるのかもしれない。例えば、ワールドカップはどこの国応援するの?と聞かれるんですが、そんなの日本に決まってるじゃん、なんでそんなこと聞くの、と思うんだけど、はたと気づくと彼らが聞きたい気持ちもわかるよな、と。イギリスに行ったら明らかに日本人だと思うけど、日本にいると、いわゆる日本人のカテゴリーにも入らない。そういうのも、今の自分に影響があるのかなと思います。

人に対する気づかいとか、みんなで助け合うとか、日本はデフォルトでできるのが凄い

 学校は高校まで日本の公立校に通っていました。当時外国人向けというと、アメリカンスクールしかなかったので、そんな外国の学校に行くぐらいなら、日本の学校がいい、と。でも、うちは平気で何ヶ月か旅行に行ってしまったりするんですよね。7月の頭になったら、もう休み、というような。当時は景気がよかったし、駐在員だったから帰国の飛行機代を出してくれていたというのもあるだろうけど、「いつ帰るの?」と聞いても「ん〜いつ帰ろうか」というかんじで、始業式出なくても、いいじゃん別に、という結構アナーキーな親でしたね。日本人だと学校は絶対休んじゃダメ、というところなんでしょうけど、全くそういう考えはなかったですね。

 日本人の友だちと価値観が違って、違和感のようなものが常にあったと思いますが、今から考えると、そういう考えなくてもいいようなことをいつも考えていて、日本のことを深く知る機会になったんじゃないかな、と思います。やっぱり離れると日本のよさを感じますよ。日本ではどこのレストランに入っても、きちっとサービスしてくれるけど、海外に行くと、ひどいところはひどい。人を気づかうとか、チームになったらみんなで助け合うとか、そういうのを日本はデフォルトでできるのがすごいと思います。

阪神大震災。人と人、人と情報をつなぐ「編集者」という仕事

 高校を卒業して一浪していたとき、阪神淡路大震災がありました。そのとき、先にボランティアに入っていた友だちに「すごいことになっているから」と呼ばれて神戸に行ったんですね。ビルは折れ曲がって、街は崩壊しているし、行方不明の人の写真を持って歩いている大群が常にいる。トイレも、食料も足りなくて、人がいがみ合っている、という光景に衝撃を受けて、そのまま学校に住み込みながらボランティアをしました。  


日本全国からたくさんの人が来ている、というのも驚きましたが、国がマヒして人々のニーズをみたすことができないけれど、結局人の力が必要なんだ、ということを実感しました。お金をもらえるわけじゃないのに、自分から進んでやってきて、神戸の人たちが助かることを心の底から喜んでいる。そういう人がこんなにたくさんいる、ということが、ある意味ショッキングでした。そういう、善意の気持ちから動く社会、というのがこれから大事なっていくんじゃないかな、と感じたのです。

 神戸から戻って、東京造形大学に入学しましたが、そういうショッキングで濃密な体験をした後の大学は、なんとスカスカで、つまらなくて、うわべだけのところなんだろう、と思ったりしました。卒業が近くなってきて、自分の専門領域は何だろう、と考えたとき、デザイナーではないと思ったんです。

 こんな問題意識を持ちながら、自分が例えば広告デザイナーとか、プロダクトデザイナーになる、という選択肢は考えられなかった。そんな資本主義の前線に行くのは頭がおかしくなりそう、と。デザインというのはパワーだと思うけれど、それを物を売るためでなく、今の時代に人間が幸せになることに使いたい。人が生きにくい社会、たとえば環境破壊や貧困問題などを解決するデザインというのは、なんだろう、と。それで、新しく時代を作る仕事をしよう、編集者になろう、と思ったのです。

 なぜ編集者か、というと、そもそも活字中毒で、本も雑誌も大好きだったんです。子どもの頃はファミコン雑誌、高校時代はファッション誌、大学時代はSTUDIO VOICEやベネトンのCOLORSに衝撃を受けたり、おばあちゃんの『暮しの手帖』を端から読みあさったりしました。雑誌はひとつの世界というか、ストーリーを展開するし、コミュニティがある。そこに入っていくワクワク感がすごく好きだった。



それと同時に、インターネットもそろそろ出て来た頃で、大学入学当時にWindows95が発売されたんですね。それでパソコンを買って、インターネットとやらにつないでみたら、すごい世界が広がっていて、度肝を抜かれた。今で言うチャットルームみたいなところに入ると、誰だか知らない人がいてたわいもない会話をしている。そのこと自体が驚きでした。これは明らかに世の中を変えていくな、とそのとき思いましたね。大企業じゃなくても、世界に影響を与えられるかもしれない、と。雑誌の持つ世界観、それとインターネットの人と人をつなげる力や情報力、両方に興味があったんですね。

「編集者は時代の産婆だ」


  大学では編集デザインやメディア論の勉強が面白くてどっぷりでした。編集とデザインって、組み合わせると、すごく面白い。松岡正剛やマクルーハンなどのメディア論を読んで、個人とか小さな会社がメディアを使って何が出来るだろう、ということを考えていました。メディアを駆使して世の中をよくすることができるのなら、生きる証になるのでは、と。例えばぼくが木を植える代わりに、木を植える1万人の人を応援したら、植えやすくなるのではないか、と思ったんですね。


  あとから、『ソトコト』の小黒編集長に「編集者は、時代の産婆だ」と言われて、まさにそうだな、と思いました。自分が生むわけではないけれど、お産の時期をコントロールしたり、赤ちゃんの健康を守ったり、環境を整えたりする仕事ですよね。例えば『popeye』は、アメリカの文化を紹介したり、若者文化を生み出したり、ということだったわけで、じゃあ僕なら何が出来るか、と考えたとき、サスティナブルな社会を作っていく、ということだな、と思ったんです。


ただ、それを実現できるような媒体は、ないんですね。大学を卒業したのが90年代後半でしたから。かといって新聞記者になるのも違うし、全然別の世界で働く、というのもどうかと思った。それなら自分でやるしかないのかと思ったんですが、それには経験もないし、お金もない。どうしよう、と思ったとき、また友人から誘われて、あるワークキャンプに行ったんです。キャンプだからバーベキューとかするかと思ったら、ついたらいきなり「草むしりしてください」と言われたり、鶏をつぶして肉にするのを手伝わされたり、野菜を収穫したり、本当にワーク、働くキャンプだったんですね。その夜、絞めたばかりのチキン料理を食べて、それまでスーパーの肉を見ても全く思わなかった、「これは僕のために命をくれたんだな」ということを実感して、考えさせられたんです。そこでの2日間の経験と、神戸での体験が、やっぱり自分は、新しい価値観、新しい社会をデザインする仕事をするんだ、ということを決定づけたと思います。


 結局、いい出版社も見つからないし、ほぼそのまま、そこで1年間ボランティアをやりました。人間が循環の中で暮らすというのはどういうことなんだろう、ということをゆっくり考える、いい機会になりました。栃木にあるアジア学院というNGOの学校なのですが、世界中から研修生を受入れて、ほぼ自給自足で暮らすんです。そこで途上国の人と知り合って、先進国とはまた違う価値観を知ったことも、刺激になりましたね。


途上国の人がさらされている、森林伐採とか、貧困問題とか、マラリアで何万人も亡くなるとか、そういったものをすべて解決した上で、自分たちのまっとうな楽しみ、たとえばかっこいい服を着るとか、金曜の夜踊りに行くとか、そういうことをあまり犠牲にしない、という社会を作りたい。ばかみたいに聞こえると思うけど、子どもたちのために、そう言う社会のベースくらいは残していかないと、と思います。自分は木を植えるわけじゃないし、CO2を減らせるわけじゃないけれど、最大限社会に貢献できるとしたら、新しいアイディアを紹介したり、人と人をつなげていくことなんじゃないか、そのためには世界をてこの原理のように変えられるものが、メディアだと、改めて思いました。
 


 といっても、やはり現実もありますので、3年間は一般の会社で働きました。それもいい経験にはなったんですが、その間に、『月刊ソトコト』が創刊されたんです。

 2000年くらいから知ってはいたんですが、もうくやしくて、うらやましくて、しばらく近づかなかったんですね。でもやっぱり学生卒業したばかりのヒヨッコがそんなこと言っててもしょうがない、それなら『ソトコト』に必要とされるようになろうと、企画書を持って編集長に会いに行ったんです。


「僕はこういう経験をしてきた、これからはNGONPOが大きな力を持つから、ソトコトも今からバックアップしていったほうがいい。ちなみに僕ならこういう企画をします」ということを、企画書にして持って行ったのです。そしたら「じゃ、明日から来て」って。ヨシ!と思いましたよ。そして、3週間後には、特集を校了していました。今から考えると、会社も大胆ですよね。そのとき、編集って仕事を初めてやったんですから。「赤字」ということばすらわからなくて、先輩に怒鳴られながらやっていましたけどね。


そこから3年間はがむしゃらに働きました。編集だけでなく、書店営業や広告営業、イベントの制作、プランニングとか色々やりました。企画100本ノック、とかありましたよ。ある商品見せられて「企画100本書いて、夕方までに」みたいな。同期で3人入ったんですが、僕はとにかく企画をたてることを重点的にやらされましたね。

問題を解決して、楽しく暮らす

  年経って、やはり自分のメディアが持ちたい、と思って退職して、フリーランスになりました。夢は口に出して言った方がいいと思って、「自分はこんなことを考えている」「こんなことをやりたい」と、いろんなところでしゃべったり、ブログに書いたりしていたら、ある会社の方から「今度メディア事業部を新たに立ち上げるから一緒にやらないか」と誘われたんです。


  それでそこに入社して立ち上げたのが、greenz.jp(グリーンズ・ドット・ジェイピー)」です。でもそこの事業がなかなかうまくゆかず、半年くらいでなくなることになったんですね。人を何人か雇って、さあこれからというときだったのですが。でも僕は元々メディアがやりたかったので、交渉して版権だけ譲ってもらい、同時期に入った優秀な女性社員を誘って、自分で会社を始めることにしたのです。20071月でした。

 僕は、会社は社員が夢を完成させる装置だと思っていたので、誘った彼女に夢を聞いてみたら、「エコビレッジをやりたい」ということでした。僕もアジア学院を経験して、持続可能な暮らし方に関心はありました。「よしそれなら、エコビレッジ+メディア」をやろうと。じゃあそのために、仕事をゲットしよう、月50万円あったら生き延びられるよね、と雑誌の企画や、レポート執筆、起業のフリーペーパー作ったり、というような、いわゆる編プロのような仕事をしました。そのうち昔の仲間をひとりずつ呼び戻したりして、greenz.jpを復活させて、今に至ったわけです。

 greenz.jpは、世界中から世の中を変える、サステナブルなグッドアイディアを集めて、それをニュース形式で発信しています。サステナブルというと、「エコ」とか「環境」というイメージが強いんですが、それだけでななくて、たとえば子どもを育てながら仕事がしやすいとか、祭りや文化が色濃く残っているとか、食文化が豊かということ、若者がいいアイディアを実行できるような仕組みとか、そういったことまで含んだものだと思うんです。


  そういう意味で、世界を変えるいいアイデアはいっぱいある。例えばツイッターで呼びかけて、チャリティ飲み会をする、ということだって、新しいお金の集め方ですよね。そういうこと全部ひっくるめて、問題を解決しつつ、今よりももっと楽しく暮らす、ということを、僕たちはサステナブルという言葉に込めています。
「クリエイティブクラス」の時代!

 greenz.jpは、首都圏がほとんどですが、面白いことを考えているインフルエンサーにはある程度知られたメディアになってきたと思います。現在、ユニークユーザーは月間56万人です。ユーザーにいわゆる「エコおたく」はほとんどいなくて、プランナー、コピーライター、代理店・メディア関係者などクリエイティブな方、グリーンな領域で自分で会社を興している方などアグレッシブな人が多いんです。


  統計をとってみると、ブログ、SNS、ツイッターなどで積極的に情報情報を発信している人が80%以上でした。その5万人の人が、SNSやツイッターなどでつながり、どんどんコミュニティができています。その人たちが、「greenz」の情報を起点に、ブログやツイートで発信して議論して、その先の人たちに届く、という構図が出来てきました。そんなユーザーがgreenz.jpの一番の価値だと思うのです。僕たちの役割は、企業とインフルエンサーの新しい関係を作るということです。例えば、若者向けのグリーンなアイディアコンペティションを盛り上げたり、都市を生き抜くサバイバルの視点から、商品の新しい使い方、活用の仕方を読者と考えたり。


企業も変わらなきゃと思っているわけです。そこで、ちょっと未来を行っている、感覚のいい読者と対話していくことで、企業も変わっていき、次のフィールドに進んで、成長して行ける。こちらとしては、そういうプロセスに関わることで、新しい社会を作ることになることにおもしろみを感じています。よりよい未来につながる商品を出している企業、そして5万人のインフルエンサーと一緒に、未来につながる、売れるべき商品が売れる社会にしていきたいですね。

 ビジネスも大きく変わりつつあると感じています。マスメディアよりもオンラインメディアやソーシャルメディアの世界に多く棲息している、感度のいいグリーンなインフルエンサーたちの存在が実はかなり重要だ、と気づき始めているのではないか、と。

 こういった層を、「クリエイティブクラス」とカテゴライズしています。デザイン、アート、サスティナビリティ、クリエイティビティ、そういったものをシームレスに考えられる人、ということですね。クリエイティビティって、クリエイターだけのものじゃないじゃないですか。八百屋のおじさんだって、おばあさんにだって、クリエイティブな人はいます。こういうふうに生活を工夫したら、暮らしやすい、というのもクリエイティブです。そういう今までつながらなかったことがつながってきているんです。

 例えば、アフリカでは水にアクセスできない人がたくさんいるんですが、そこに遊具をつくり、子どもがそれを回すと水を引けるポンプを作った起業家がいます。水を遠くにくみにいかずにすむ、子どもが遊べる、タンクに広告を出せる、メンテナンスのための雇用が生まれる、など、一石何鳥もの効果があるわけです。これが欧米の資金援助も得て、南アフリカに何千カ所も建設中です。これって既存の物の組み合わせただけですよね。まさに「編集」だし、クリエイティブですよね。来年のトレンドはこれ、というような薄っぺらいのではなく、骨太でかっこいい。そういうことに目を向けているクリエイティブクラスがたくさん増えれば、もっと面白い世の中を作っていくと思います。

naoさんの、世界を変えるグッドアイディアは、greenzをはじめ、ニッポン放送の番組や丸の内朝大学などでも発信中。詳細はTwitterで
「少ない資源で豊かに暮らす」という意味では日本は先進国なんだと思う。

  今は情報発信が中心ですが、言っているだけじゃなくて、自分たちが実践しよう、と2011年を目指して、具体的に計画しています。千葉県のいすみ市に、うちの家族が先遣隊として引っ越していくんですが、そこでみんなに見える形で、持続可能なアイデアを実現する場所を作ろうと思っています。
 

 一言で言えば、「みんなでやるDASH村」みたいなイメージ。ハイテクもアートもデザインも最先端の情報ツールもシームレスに取り込んで、未来の暮らし方をみんなで考える場にしたい。それをインターネット上でソーシャルメディアと連動して発信する、といったことを考えています。千葉の外房ですから、東京にいるよりはるかに低コストで実現できますし、場所とメディアを持つことで、可能性も広がると思います。シンクタンク的な役割を果たしたり、研究したことを講演、あるいは書籍として発表する、などまわりのネットワークと連動しながらやっていきたいですね。たとえば、若くてアイディアあふれる最先端の人々を呼んで「どうやったら世界をいいところに変えられるか?」を考えるカンファレンスもやりたい。そういう会議は、こういう場所でこそやるべきです。 

 東京が、地団駄踏んでくやしがることをやってみたいな、と思いますね。地方には東京にない資源がたくさんありますよね。野菜は、収穫から5分が一番おいしいというけど、どんなに流通網が発達しても、都会ではそれは味わえない。情報ネットワークが発達すればするほど、その場所にしかない価値が相対的に上がっていく。日本中にそのポテンシャルがあると思います。その価値を生かせば日本はもっと豊かになると思うし、そうすると海外からもっと人を呼べると思うのです。どんどんモノを生産して、さあみんなで豊かになろう、なんて社会はなくなったわけで、これからは、少ない資源で、今までよりもはるかにクリエイティブで、おもしろおかしく暮らせるか、というのがこれからのテーマだと思いますね。その実験の場所にしたいと考えています。 

 日本は、もともと文化としてエコロジーが根付いていると思います。しかも、おしゃれですよね。打ち水が風流だったりするじゃないですか。生活とアートが分かれていないとか。風呂敷だっていろんな包み方が出来るし。落語も究極のエコですよ。ただ集まって話を聞くから、CO2も発生しないし、そこには芸として深いものがある。エコ対策とかそういうんじゃなく、少ない資源で豊かに暮らすという意味では、日本は先進国なんじゃないでしょうか。


[取材/文:神谷巻尾(フリーエディター)]


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