「編集者は時代の産婆だ」
大学では編集デザインやメディア論の勉強が面白くてどっぷりでした。編集とデザインって、組み合わせると、すごく面白い。松岡正剛やマクルーハンなどのメディア論を読んで、個人とか小さな会社がメディアを使って何が出来るだろう、ということを考えていました。メディアを駆使して世の中をよくすることができるのなら、生きる証になるのでは、と。例えばぼくが木を植える代わりに、木を植える1万人の人を応援したら、植えやすくなるのではないか、と思ったんですね。
あとから、『ソトコト』の小黒編集長に「編集者は、時代の産婆だ」と言われて、まさにそうだな、と思いました。自分が生むわけではないけれど、お産の時期をコントロールしたり、赤ちゃんの健康を守ったり、環境を整えたりする仕事ですよね。例えば『popeye』は、アメリカの文化を紹介したり、若者文化を生み出したり、ということだったわけで、じゃあ僕なら何が出来るか、と考えたとき、サスティナブルな社会を作っていく、ということだな、と思ったんです。
ただ、それを実現できるような媒体は、ないんですね。大学を卒業したのが90年代後半でしたから。かといって新聞記者になるのも違うし、全然別の世界で働く、というのもどうかと思った。それなら自分でやるしかないのかと思ったんですが、それには経験もないし、お金もない。どうしよう、と思ったとき、また友人から誘われて、あるワークキャンプに行ったんです。キャンプだからバーベキューとかするかと思ったら、ついたらいきなり「草むしりしてください」と言われたり、鶏をつぶして肉にするのを手伝わされたり、野菜を収穫したり、本当にワーク、働くキャンプだったんですね。その夜、絞めたばかりのチキン料理を食べて、それまでスーパーの肉を見ても全く思わなかった、「これは僕のために命をくれたんだな」ということを実感して、考えさせられたんです。そこでの2日間の経験と、神戸での体験が、やっぱり自分は、新しい価値観、新しい社会をデザインする仕事をするんだ、ということを決定づけたと思います。
結局、いい出版社も見つからないし、ほぼそのまま、そこで1年間ボランティアをやりました。人間が循環の中で暮らすというのはどういうことなんだろう、ということをゆっくり考える、いい機会になりました。栃木にあるアジア学院というNGOの学校なのですが、世界中から研修生を受入れて、ほぼ自給自足で暮らすんです。そこで途上国の人と知り合って、先進国とはまた違う価値観を知ったことも、刺激になりましたね。
途上国の人がさらされている、森林伐採とか、貧困問題とか、マラリアで何万人も亡くなるとか、そういったものをすべて解決した上で、自分たちのまっとうな楽しみ、たとえばかっこいい服を着るとか、金曜の夜踊りに行くとか、そういうことをあまり犠牲にしない、という社会を作りたい。ばかみたいに聞こえると思うけど、子どもたちのために、そう言う社会のベースくらいは残していかないと、と思います。自分は木を植えるわけじゃないし、CO2を減らせるわけじゃないけれど、最大限社会に貢献できるとしたら、新しいアイディアを紹介したり、人と人をつなげていくことなんじゃないか、そのためには世界をてこの原理のように変えられるものが、メディアだと、改めて思いました。
といっても、やはり現実もありますので、3年間は一般の会社で働きました。それもいい経験にはなったんですが、その間に、『月刊ソトコト』が創刊されたんです。
2000年くらいから知ってはいたんですが、もうくやしくて、うらやましくて、しばらく近づかなかったんですね。でもやっぱり学生卒業したばかりのヒヨッコがそんなこと言っててもしょうがない、それなら『ソトコト』に必要とされるようになろうと、企画書を持って編集長に会いに行ったんです。
「僕はこういう経験をしてきた、これからはNGOやNPOが大きな力を持つから、ソトコトも今からバックアップしていったほうがいい。ちなみに僕ならこういう企画をします」ということを、企画書にして持って行ったのです。そしたら「じゃ、明日から来て」って。ヨシ!と思いましたよ。そして、3週間後には、特集を校了していました。今から考えると、会社も大胆ですよね。そのとき、編集って仕事を初めてやったんですから。「赤字」ということばすらわからなくて、先輩に怒鳴られながらやっていましたけどね。
そこから3年間はがむしゃらに働きました。編集だけでなく、書店営業や広告営業、イベントの制作、プランニングとか色々やりました。企画100本ノック、とかありましたよ。ある商品見せられて「企画100本書いて、夕方までに」みたいな。同期で3人入ったんですが、僕はとにかく企画をたてることを重点的にやらされましたね。