大学院生や、物を書きたいと思っている人、メディア作りに関心がある人を中心に、幅広い人たちに買っていただいているようです。1号にあたる『.revierw 001(ドットレビュー)』は合計800部刷りました。最初500部作ったのですがあっという間に足りなくなって、追加で300部刷りました。『.review 001』のときには、ノウハウがなくて300ページ超にもかかわらず、実質10日くらいで作りました。最初は誤字脱字、誤植も多かったのが本当のところです。増刷した300部はそれらを直して、コンテンツを追加しています。それを『.review 001』ver1.3として、今書店や大学生協さんで販売していただいています。それだけではなく、直販や一部のコンテンツは電子書籍化してダウンロード販売も行っています(dotreview.jp/premium/)。今思えば最初のものは0.9くらいでしたね。それを買っていただいたのですからありがたいと思うのと同時に、関心を持っていただくことができたと思っています。
——そもそもどんなきっかけで「.review」を始めたんでしょうか。
「.review」の構想は元を辿ると、2009年の秋に遡ります。ぼくは哲学者・小説家の東浩紀さんらが主催されていた『思想地図 vol.2』(books/nhk_books/shisou/)での原稿執筆をきっかけに、いろいろな大学の勉強会に呼ばれる機会が増えました。その結果、分野を問わず同年代の大学院生の知り合いが増えました。特に一橋大学の勉強会に呼ばれたときに、盛り上がって「一緒に、何かやろう」という話になりました。
このように、たまたま原稿執筆の良い機会をいただくことができて、「何かやろう。勉強会をやろうか」という話になったのだけど、ぼくは「アウトプットがないただの勉強はつまらない、なにかアウトプットにも取り組もう」と思った次第です。それで、「メディアを作ってみよう」という話になったわけです。
昔はフォーマルな学会に限らず、インフォーマルな研究会がいろいろな所であったようです。今から思えば、ぼくが長い間お世話になっている宮台真司先生のゼミもそうでしたね。でも今そういう動きはかなりなくなっているように思えます。大学や研究科に閉じがちで、若手たちの独自な取組みはやりにくくなっているように思えます。実際、ぼくも当時は宮台ゼミを除くと、緩く、広く、さまざまな背景をもった人間が集まる研究会にはほとんど参加したことがありませんでした。
もしかすると、大学院重点化も影響しているのかもしれません。いま、博士院生には「とにかく早く博士号を取れ」、という高い圧力がかかっている。結果的に、院生も近視眼的になって、博士論文に直結しない「余計なこと」を避けたがる傾向があるようにも見えます。この先何十年も研究者としてやっていくことを目指す駆け出しの時期にそういうことでいいのか、ぼくにはよくわかりません。引き出しを広くしたり、既存のものの見方にとらわれない他分野の人たちと交流することも重要な気がしますが・・・
話を戻します。メディアを作ろうとなったときに、そのコンセプトやミッションを練っていくことになるわけですが、そもそも「物を書く場所」を見渡すと、出版業界の厳しい現状がありました。昔は若手の登竜門的媒体がいくつもありました。ぼくの記憶では、『InterCommunication』や『論座』あたりはそういう機能をもっていたのではないでしょうか。企業の文化活動の一環でも企業広報誌などがあって、そのような役割を果たしてたようにも思います。『未来心理』や、かつての『ACROSS』さんもそうだったのではないでしょうか。ぼくたちはそういう媒体で、少し年上の先輩たちが仕事をしているのをみて、「いつかは」と刺激を受けたものです。ですが、今ではこれらの媒体はすべてなくなってしまいました。紙面の数が減ると、若い実力が未知数の人間をこっそり忍び込ませるような「あそびの部分」が失われていきます。結果として「実績」のある書き手に、仕事が集中しているのではないでしょうか。教育から旅行記、脳の問題、政治まで一人の書き手が論じる時代ですから。また、若い書き手をさがす余裕もないように見えます。どこに若い人間がいて、何をやっているのか、よくわかっていらっしゃらないように見える。
ですが、ただこの現状をして、「出版社が悪い」とか、「ぼくらの世代は探されていない」などといってもしょうがないわけです。おそらく「めんどくさいやつがいる」くらいのレッテルをはられて終わってしまうでしょう。ぼくらにとっては「自分たちがこういうことをやっている」認知させることのほうが重要だと思います。「相手が探せないのなら、自分たちからアピールしてみよう」ということです。同時に、それが学術的価値とは別の社会的価値を持つ言説や収益に繋がったらおもしろいなとも思ったわけです。このようなミッションのもと、若い院生と、少し範囲を拡大して書き手を目指している人間の情報発信を自分たちの手でやっていこうということで始まったのが「.review」です。「.review」という名称は、「見直す」という意味の「review」、インターネットを意味する「.(ドット)」からつけました。
——そういうことは、西田さんより少し上の、30代の学者はやってこなかったんですか?院生だった人も多いと思うんですが。
不勉強ながら、ぼくはあまり知りません。『POSSE』さん(www.npoposse.jp/)などでしょうか。むしろ最近になってそういった動きが盛んになってきた気がします。
たとえば前述の東浩紀さんは、『思想地図』の続編を自ら「コンテクチュアズ」(http://contectures.jp/)という会社を立ち上げて出版しようされていますね。社会学者の芹沢一也さんと荻上チキさんの「シノドス」(http://synodos.jp/)もありますね。批評家宇野常寛さんの『PLANETS』(wakusei2nd.com/)もあります。また、charlieこと社会学者の鈴木謙介さんがメインパーソナリティをつとめるTBS「文化系トークラジオLIFE」(www.tbsradio.jp/life/index.html)も、既存メディアで「自分たちが聴きたい番組を、自分たちの手でつくる」というコンセプトは変わりません。今、このような媒体をあげてきましたが、実は「.review」の立ち上げ前にぼくが仕事をさせていただいたメディアでもあります。共通することは既存メディアや組織にとらわれず、自分たちがやりたいことのために、その枠組みも作っていることです。仕事をさせていただいたことや、インフォーマルなお付き合いのなかで、ぼくにもそのような問題意識が自然に醸成されるきっかけになったのだと思います。
あとぼくらの世代の博士院生になると、全員がちゃんと仕事に就けるとは思っていないですからね。学術的価値に限らず、もう少し一般的な社会的価値を生み出しておくことはキャリア形成の観点でも重要になる可能性があります。ぼくも、独立行政法人中小企業基盤整備機構や自治体、NPOなどと調査や企画の仕事を手掛けています。ぼくらはさすがに昔ながらのやり方でだけではヤバいとわかっている。でも、未だ正解や正攻法は定まっていないようにみえます。ということは、いろいろと試行錯誤することに価値があるといえるのではないでしょうか。「.review」もその一環です。
——研究者の道に進もうとしていても、仕事をしようと思うわけですか。
院に行ったからといって、海外とことなり生活費が支給されたり、給料が出たりする身分の博士院生はきわめて少数です。食い扶持はなんとか稼がないとまずいですよね。それから研究にはお金がかかります。専門書は高額ですし、人文社会科学系は理系と比べて資金が必要ないと思われがちですが、それは「相対的に」です。調査に移動するには費用がかかるし、研究成果を報告するにも、学術キャリアを積むために学会に参加したり、学術誌に論文を掲載してもらうためにも数万円単位の資金がかかることが一般的です。本は図書館で借りればいいではないかという意見もあるかもしれませんが、趣味の読書のようにさらっと読み流すわけではありません。何度も読み返しますし、折り目をつけたり、書きこんだりする。やはり、研究で使うためには自分で購入する必要があります。博士院生ならみんな苦しい生活のなかで、なんとかやりくりしながら本を買っているはずです。そんな現状を『中央公論』2010年2月号の大学特集の「見えない将来の生活像…… ある若手研究者の悩み多き日常」というエッセイに、一般の人にもわかりやすいように記したことがありますので、気になる人は読んでみてください。
水月昭道さんの一連の著作のように、「大学院重点化や国が悪い」ということばかり言ってい人もいますけど、ぼくら下の世代が知りたいのはそんなことじゃありません。そんなことは分かりきっています。科学技術基本計画のなかで「科学技術創造立国」という政策目標を掲げていて、人材育成をうたっているのにこの現状はなんだ、と。分からなくはないけど、博士課程に進んだ人なら大抵は知っていることです。それから、どこの業界においても、自分のキャリアは少なからず自分で考えるしかないという側面もあります。国への文句をひたすら本にするのもいいですが、その解決策か、せめて方向性を示してほしい。むしろ、ぼくたちが知りたいのは文句ではなくて、上の世代の人たちがどうやって「生計を立てているのか」「キャリア構築しているのか」という成功例やノウハウです。文句はなんの参考にもならない。