Who's who in NY:尾花大輔/OBANA DAISUKEさん
2011.07.19
その他|OTHERS

Who's who in NY:尾花大輔/OBANA DAISUKEさん

ブランド立ち上げから10年。東京を代表するブランドに成長した「N.HOOLLYWOOD」のデザイナー、尾花大介氏が、服づくりの原点をNYで見直すことにした。

10年間当たり前にやってきたことを、ローカルじゃないNYでやってみたかったんです。


服を作るようになって10年間、ずっと東京でコレクションを発表してきたのですが、去年の9月からコレクションをニューヨークで見せるようになりました。

 

第1回目のテーマは「ポリス・ピクチャー」で、プレゼンテーションという形態をとりましたが、今年2月には「ハーフ・ドーム」というタイトルをつけて、アンセル・アダムスのヨセミテ国立公園をテーマにしたコレクションを、ランウェイという形態で発表しました。

 

なんで今回はランウェイなんだってよく聞かれましたが、過去10年間当たり前にやってきたことをまたやったという感じです。NYではローカルじゃない自分たちがいて、限られた条件のなかでできることをやりたかった、それから、あえて「ニューヨークらしい」やり方で、服をメインに見せることを目指したショーでした。

 

東京だったらいろんな仕込みをすることによってテーマを伝えるランウェイをやる。でもNYでは、あえて舞台作りなどはいたってシンプルにしました。NYでやるようになって2度目、まだプロダクションチームとの関係もなかなか思うほどしっかりできていない状況で、自分の気持ちだけが先走って、できたものが完全でない、という状況になるのが不安だった。だったら音や光はシンプルにして、必要最低限のことで伝えられることに集中しました。

 

僕が思うNYらしさ」っていうのは、いまだにブランド名がバックに入ったようなステージに、シンプルなライティング、そこにモデルがどんと出てdきて、メインは服を見せることだったり。つまりベタな感じもアリなんですね。そんななかに、僕らなりのテイストを足して、ローカルのデザイナーとは一味違うベタなNYスタイルを目指した。シンプルなランウェイに、バックは山肌をイメージしたパネルを立てて、光だけで見せるというやり方をした。

 

実は、ファッションショーのライティングの使い方という点では、日本って天才的なんです。東京でやってる限りは、材料もいっぱいあるし、ずっとやってきた分、業者さんとも関係ができていたから、大掛かりなことを格安でやってもらえたりするんですが、まったく同じことを、NYでやろうとすると、けっこうなお金がかかってしまう。まだローカルの業者との関係ができあがっていないから、僕らには無理なんです。だったらできることからやっていこうかなという自然な流れでした。

 

東京コレクションでは服はもちろんですが、どうやって見せるか、つまり椅子の高さひとつ、壁の質感、あとで説明しないと誰にも伝わらないようなことまで、すごく気にしていました。前回、初めてNYでプレゼンテーションをやってみて、「ここだったら、大味なやり方をしても、確実に伝えることができるバイブレーションを作り出せる」と思ったんです。

 

日本でやっている間は、シートの触り心地から何からとことん突き詰めていた。僕自身が細かいことに神経質になりすぎてたのかもしれません。もちろん、細かいこだわりは、大事なことだと思うんですが、前回のNYでそうじゃないことでも伝えられるという自信がつきました。やり過ぎないちょうど良い加減で、自分の見せたかったものを表現できたかなと思います。オーディエンスも服に集中してみてくれたし、満足しています。


 

2010年9月10日、初めてアメリカ・ニューヨークで2011SSのコレクションをプレゼンテーション形式で発表した。

いちばん最初のショーをやったときのような一体感や、忘れかけてた感覚を思い出しました。

 

NYに行くスタッフは、社内から4人です。それにスタイリストの二村毅さんカメラマンの守本勝英さん演出家の吉原一雄さん・・・というチームが加わり、NYサイドでもヘアのKENSHINさん、それにメイクにはSHISEIDOさんが参加してくれてチームを組んでいます。

 

それでも東京時代と比べると、ごく限られた人数でやっていて、フィッターなんかはインターンさんたちに頼らざるをえないので、常にアクシデントの連続ではあるんです。現地でのモデル・ハンティングや、服作り、スタイリングについてはずっとやってきたことだから、場所は変わってもできる自信はあるんですが、あとはどうなるかわからないという1分1秒がすべて賭けのような状況で、もちろん不安はあります。

 

東京でももちろん不特定な要素はあるのですが、10年やるうちに色々と慣れてきて、気がついたら60人ぐらいのスタッフでやるような大きな舞台裏になっていました。前日、コーディネート終わらせて、夜ご飯食べにいって、翌日会場にいったらすべてセットアップされていて、僕は最終チェックするだけという感じになっていました。

 

でもNYでは、また全部一から自分でやらなければならなくなったわけです。大変だったけど、背筋は伸びたし、新鮮だった。10年前に一番最初のショーをやったときと同じような一体感や、忘れかけてた感覚を思い出せて、自分にとって良い体験でした。

そうだ、NYに行こう!

 

最初の海外進出はパリでした。単純にセールスのことを考えての決断でした。ヨーロッパのバイヤーが東京にやってきて、僕らの服に興味を示してくれるんだけど、「パリにきてくれないと買えない」と言われて。

 

「だったら俺の考えをパリで見せてやる」のという好戦的な気持ちもありました。だからあえて本ラインを持っていかずに、スーツのラインだけを持っていったんです。パリでやっているうちに、バイヤーさんやプレス関係者たちから「もっと見たい」「次はもっと派手に」というような声が聞こえてくれるようになっていきました。

 

そういう展開は当たり前のことではあるんだけど、僕はもともとキャロル・クリスチャン・ポエルのように、ワンラック分ぐらいで、服ができあがったときにシーズン発表するみたいなやり方で、見せていくことがやりたかった。それなのに、気がついたら、それ以上を求められて、自分もそれに応えるようになっていった。

 

東京でコレクションを発表し、パリでも同じだけ分厚いテーマを用意して、スーツラインまで作るようになってしまった。つまり、年4回テーマ作って、コレクション作って、っていう状態。ふと、自分のなかでは、できる限りの濃度は出してるつもりなんだけど、いつしか薄くなっているような気がしたんです。

 

一方でプロダクションチームがしっかりしていった分、服の仕上がりは確実に向上していきました。でも、自分が作ってる服の先端まで管理できていない雰囲気を感じて、だんだん気持ちが悪くなっていったですね。そんなある日、「そうだ、ニューヨーク行こう」って思い立ったんです。

2009年には全国のファン待望のオンラインストア「MISTER HOLLYWOOD OFFICIAL ONLINE」をスタートした。
http://store.n-hoolywood.com/

ヨーロッパはアートな思考中心でモノをつくることが要求されるけど、僕はどっちかというと、アメリカの方法論でモノを作るという部分がフィットしていると思います。

 

そのときは、NYでは展示会を先にやるっていうことを知らなかったから、今のタイミングで決めれば間に合うという間違った計算で決めてしまい、あとでひっちゃかめっちゃかになりました。それくらい衝動的な決断だったんです。

 

僕は性格的には、パリジャンの気質に近いところもあるんです。ネガティブなところからポジティブなものを探す性格なところとか。でもパリって、展示会をやっていても、テンション上がる空気感じゃないんですね。自分にとって。自分で気分を上げていくしかない。僕の服を見て、見てくれている人たちがものすごく哲学的な話とかしてるんですが、それを見ていたら、買い手が自分と同じテンションじゃなくてもいいなって思ってしまった。パリにくるアメリカ人のバイヤーの方たちが、どんどん単刀直入に質問をしてくる感じとか、でも服を細かく見ている態度などを見ていて、こっちのほうがリアルだなと感じましたね。

 

今、NYでやってみて、服作りに対するモノの置き方や価値観が自分に近いなと改めて感じています。最近アメリカでは、昔ながらのファクトリーブランドや老舗ブランドが、権利を買収されて、新たに生まれ変わるという流れがありますよね。

自分はもともと古着のバイヤーで、古着の影響を受けて、そこから新しく色を変えた物作りという作業をしている。やっていることは別かもしれないけれど、アメリカの今のファッションの流れや考え方は、自分にフィットしていると思う。方法論でモノを作るという部分で。また、ヨーロッパはアートな思考中心でモノを作ることが要求される場所だと思うし。

東京とは違うNYのジャーナリズム事情

 

発表の場をNYに移して、アメリカの歴史にインスピレーションを受けたコレクションをアメリカの方に見せてるわけですが、僕のなかでは何も変わらず、今までやってきたことをやっているつもりです。どう受け取られているのか、正直よくわからないんですが、おもしろがってくれているんじゃないかとは思います。

 

スタイル・ドットコムが、熱いレビューを書いてくれたんですが、「スピークス・ヴェリー・リトル・イングリッシュ」なんて書かれちゃいました(笑)。もうちょっと英語勉強しますって思うようになりました。これまで「勝負はそこ(英語)じゃないぜ」って思ってたけど、話せたら、もう一発奥に入って何かできるんじゃないかなと思うようになりました。一方的なこともかっこいいとは思うんですけどね。

 

現地のジャーナリストたちから取材を受けて書かれたものを、翻訳してもらって読んでみるのですが、日本のファッションジャーナリズムと違って、エディターが思い思いに僕のコレクションを見た感想を素直に書いてあるなという印象です。

 

NYでやって気がついたのは、発表する考え方などがしっかりしている事などが重要。多少荒削りでも問題ない。日本ではネガティブになってしまうところもあると思うんですよ。あと、僕はまだよくわかってないんですが、今回のコレクションには、かなり重要なジャーナリストたちが来てくれたみたいです。

要はまだNYの事情をまったくわかっていない。でも、思い出してみれば、東京で始めたときもそうだったんです。それを時間をかけてひとつずつ学んできた。無理して一気に情報を入れようとしてガチガチになるくらいだったら、自然に知っていけばいいと思っています。

こだわりのポイントは「ノスタルジックな今」

 

東京時代からずっとやってきた素人モデルのハンティングですが、NYでもやっています。今回は本格的に4日間かけてモデルを探しました。ブルックリンイーストビレッジを中心に。前回死ぬほど歩きまわったおかげで、どこに行けばどういう連中がいるってポイントはだんだんつかめてきたような気がします。

 

スタイリストの二村さんが、ちょっとした有名人化していて、前回会った人たちが声をかけてくれたりとか、手伝ってくれたフリーの子たちががんばってくれたおかげもあって、こんな大都会で、こんなに汗っぽいことが通用するんだと驚いています。ニューヨーカーたちに見てほしいくらい温かいことができていると思う。ショーに出てくれたモデルにコーヒーごちそうになったりね。まだ2回目だからビギナーズラックもあると思うけど。

 

僕はそもそもトラディショナルなものや、ノスタルジックなものからモノづくりをしている人間なのですが、復刻ものを作っているわけじゃないし、実は「人より、ほんの少しだけ未来の今」を表現することにこだわっている。

 

キャスティングについて二村さんと話していたときに、「そういうやり方で作った服を単純に「今かっこいい」であろうモデルさんを当て込んでも、ショーでのリアリティーに欠けてしまう。モノづくりもそうであるように、本当に昔っぽい顔をしていて、極限にそれに近かったとしても、生まれたのは「今」だとしたら、僕らの服と同じ見え方で、クリエーションとキャスティングがリンクしてくるから良いのでは」という結論にも達した。

 

古い顔なんだけど、今を生きている人だから、現在のハイブリッド感も持っている。だから出生地までこだわります。たとえば今回は、クライミングがテーマでしたけど、クライミングの歴史を辿ると、イタリアまでさかのぼれたので「イタリア系のモデルが入ってもいいな」とか。僕がやってきたやり方でできあがった服と、そういう物語のなかで参加してもらった「古い顔の今」の人間が混ざったときに「ノスタルジックな今」を目指すことができると思うんです。ただの古い何かには見えない。

 

今回のテーマにしたアンセル・アダムスのヨセミテの写真集は、1年半くらい前にグレンデールのフリーマーケットで見つけました。今から4シーズン前くらいに、「オートジャンクション」というテーマで、デトロイトのクルマ事情を勉強したことがあったんです。そのときにエドワード・バーティンスキーという環境系のフォトグラファーを発見した。彼もベルント/ヒラ・ベッヒャー夫妻やアンセル・アダムスみたいに、底ピンの風景写真を撮る作風の写真家だったんですが、その頃、自分も勉強しなきゃなと思っていた時期で、アーヴィング・ペンが亡くなった時期とも重なった。

 

考えてみると、巨匠的な写真家って、当たり前な物として見てしまいがちで、深いところを意外と誰も知らなかったり。調べれば調べる程、巨匠は巨匠な理由があって、ちゃんと裏付けがあるなと思っていた頃だったんですね。だから写真集を見つけたとき、そういえばアンセル・アダムスをちゃんと見たことなかったことに気がついて手にとった。立ち読みして「ふんふん、こんな時代にそんなことやってたんだ」って購入したんです。

 

そうやって調べ始めたら、ゾーンシステム(アンセル・アダムスとフレッド・アーチャーが考案した写真の技法)というものをあみだしたりだとか、色をどうやって出してたとか、いろんなことがわかってきた。リサーチしているうちに、アンセルがそれだけはまってしまったヨセミテ公園に行ってみたくなったんですね。実際に行ってみたら、アメリカでは誰でも知ってる写真家なだけに、アンセルが写真を撮った場所はみんなツーリストの立ち寄りスポットになっている。アンセルゆかりの場所にいくと、いろいろ資料が出てきておもしろいんです。

 

最初はコレクションもアンセルだけをテーマにしようかと思ってたんですが、調べていくうちに、その当時のクライマーはどうしてたんだろうということが気になり始めた。アンセルは人のポートレートは撮ってたのですが、ヨセミテの写真には登っている人は登場しないんです。それでわかったのは、ヨセミテ国立公園のなかにあるハーフドームという山登りの有名なスポットは、険しくて1950年代まで登頂した人はいなかった。アンセルがヨセミテに行ってたのは1920年代ですから、アンセル時代のアメリカのクライマーは見つからないのは当然のことなんです。

 

以前にフランスに行ったときに、1920年代のクライマーたちの本が出てきた。それを見たら当時のヨーロッパの人たちは、山に登るのにきっちりスーツ着て、それにザイルを強引に付けていたんですね。当時は機能服がないわけですから当然といえば当然なのですが、ヒモ一本とスーツで山に登る男たちの姿がとても美しかった。

 

昨今のメンズのファッション事情を見てみると、山っぽいものって当たり前にあるけれど、単に山=アウトドア、ということではなくて、歴史をさかのぼった一番最初の部分を、自分なりに消化して伝えたら、新しく見えるんじゃないかなと思ったんです。僕もアウトドアものは好きなほうなんだけど、そんな僕が単純にアウトドア見せてもおもしろくないし、かつてはこうだったということを見せられたらいいんじゃないかと思ったんです。

「思い」を伝えたいからリサーチにこだわるんです。

 

こんな具合に、僕はコレクションをやるたびに、テーマについてはかなり突き詰めてリサーチしています。本当のことを言えば、ここまでリサーチにこだわらなくても、洋服のデザインはやろうと思えばできちゃうと思うんです。でもデザインするときにテーマの現場に行かずに空想をベースにすると、自分のなかで不安要素が増えるんです。

 

服を作るプロセスって、アイディアを練るところから、テーマを決めて、それをデザインチームに説明して、という一番最初のステージから、実際にコレクションが出来上がるまで1年半は確実にかかるし、売り切るところまで含めると2年間という月日を費やすプロセスになります。その2年の間に、自分が作ろうって思ったものに対して、自分の気持ちが飽きてしまったり、シーズン最後にお店にきてくれたお客さんに自信を持って伝えられないと困るんですね。その不安要素を消すために学習する、あくまでも学習したあとに、あとで雰囲気的なものをデザインの要素として入れていくのはいいんです。

 

僕はもともと古着のバイヤーだったわけですが、古着をやっていると店員だろうとバイヤーだろうと知己がモノを言う。「知らない」古着屋の店員はダサいんですね。だから徹底的に調べるということが身についたのだと思う。

 

もちろん作って発表するという最終地点は違いますが、ベースは古着屋をやってた頃の作業とあまり変わらないんです。ただひとつ大きな違いは、古着の世界では、知識の積み重ね、つまりある知識を得たら、その先に別の知識が広がっていった。

 

服を作る作業だと、コレクションのたびに新しい引き出しを開かないといけないので、ゼロから勉強しないといけない。とにかく勉強して、「ここまでわかってれば、人に話をするときに今回の思いを伝えられる」というところまで持って行きます。僕のリサーチ作業は、趣味のなかに勉強があるんだけど、最終的には仕事でもある。目標がない勉強はがんばれないけど、これならがんばれる。僕は多趣味でもないし、このリサーチは楽しい作業です。

ポイントは濃縮し、広げる部分は柔らかい気持ちで

 

正直、昔より器用になってしまった部分もあるし、ある程度、ポイントポイントでプロセスを捨てて、スタッフにお願いしたりします。調べるのは、誰とも話さずに自分の世界に没頭する作業です。日常の業務もあるし、仕事が終われば家族もいるし、やっぱりその時間を取るのが難しくなったりして、人に任せることも覚えました。でも気持ちのなかでそれを克服するのにも2年くらいかかりました。「人に頼んだら、自分のものじゃない」って思ってしまうんですよね。臆病者なのかもしれません。

 

たとえば、スタイリストの二村さんとの共同作業のなかで、彼が独自の調査で、僕が半年間調べ続けたのに知らなかった情報を知っていることがある。そういうのがものすごく悔しいんです。だからとことん突き詰めるし、負けず嫌いという部分もあるかからかもしれません。

 

ただ、そうやってプロセスを削ったり、人の意見を取り入れたりしたことで良いこともあった。自分一人で突き詰めていくと、ガチガチになって、服に決めつけができたり、幅が狭くなる。濃度が濃すぎて、何かが欠けてしまう部分もある。自分がデザイナーとして大きくなっていく過程のなかで、ポイントは濃縮し、広げる部分は柔らかい気持ちで、というふうに受け入れる気持ちが、最近ようやく出てきました。そのへんはバランスが大切ですね。


自分のアメリカに対する愛着の原点は、自分が古着のバイイングでアメリカに来るようになり、古着を拾って服を作り始めたというところにあります。もちろん、人から「世界にはいろんな場所がある、アメリカじゃなくてもいいじゃないですか」と言われることもあります。

 

でも僕にしてみたら、まだまだ自分がアメリカを見たとは思わないんです。飽きてもいない。浮気する前に、もっと知らないとダメだと思う。それに広くするといっぱいつまみどころがあって、薄っぺらい雰囲気になりそうで怖い。古着を買っていた当時から、僕は極力アメリカの古着だけを選ぶようにしてきました。

 

サンローランやピエールカルダンのヴィンテージのようなごく一部の例外をのぞいては、アメリカにこだわり続けてきた。服の歴史ということでいえば、アメリカの古着以外のことはあまり知らないんです。アメリカを専門にして「何でも聞いてください」って態度でやってきたのに、ヨーロッパに簡単に行って、それをイージーに取り入れたら浅はかさが出たらイヤだなとも思いますし。それは不安要素を消したいということでもあるけれど、自分はアメリカの古着が好きだということから始まったということを、守り続けることによって時間とともに人に伝わっていくだろうなと感じています。

アメリカに住んだらまた変わるかもしれませんけどね。ツーリストでいるから、好きでい続けられるのかも。


毎シーズン、ショーが終わったとき、達成感もあります。東京だと、お客さんを入れて、モデルが並んで、並んだ姿を見たときには僕はもう不安じゃないんです。自分は100%やったから。そこにきっちり並んだモデルを出しながら、極端な話、モデルが転んだっていいんです。「良かった、次もがんばんなきゃな」って思いながら、モデルを送り出してるんです。そういう意味で、デザイン、クリエーションは僕にとって終わらない世界なんです。達成感感じる前に、次が始まっちゃう。だから終わったと思うのは、やめるときだろうなと思いますね。もしかしたら達成感に浸りたくないのかもしれません。

3.11を経て、改めて、平常心を保って、自分たちを支えてくれている人たちに何かをやり続けることが大切だと思いました。

 

3月に東日本大震災が起きて、数日後、デザイナーの先輩たちと集まりました。

自分たちにできることはなにか、東京コレクションが中止になって、どうするべきかという話をしたんです。いろいろ話しましたけど、僕ら1人ひとりが震災が起きる前と変わらず、きっちり平常通りに仕事をこなすことが一番大切だと思っています。それが僕らのまわりで一番支えてくれている人たちにとっても、業界にとっても、最終的には役に立つんじゃないかと思うんです。今回の震災でわかったことは、誰も予測できないことが起きている以上、見えない何かに向かって新しい謎の計画を立てることよりも、平常心を保って、自分たちを支えてくれている人たちに何かをやり続けることが大切だということでした。

 

もちろんファッション業界にもいろんな影響は出ています。しばらくはオーダーが減ったりするかもしれない。僕らはたまたま震災が起きる前から海外でもセールスしてきました。でも、これまでの日本から世界で勝負をしてきた大ブランドでも、売上の半分以上が日本国内であったり、逆に、世界のデザイナーにとって日本のマーケットは重要だったりする。

 

片田舎の漁村みたいな場所でも、ファッションが好きで服を買いたいという人がいる、それが日本なんです。そんな国は世界で他にないし、僕はそれが日本の素晴らしいところだと思う。だから今、海外でビジネスをやっているけれど、日本が大切だとうことは変わらないし、それを大切にやっていこうと思っています。


[取材/文:佐久間裕美子@ニューヨーク]

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