オトナになる、ということ。
2年くらい前からでしょうか。自分が着たい服、と始めたはずのマウジーに微妙なズレを感じるようになったんです。23歳のときに立ち上げたブランドですからね。今年わたしは27歳なので、好みが変わるのは当然かもしれません。サイズも違ってきますし。おつき合いする人が変わってきましたし、結婚もしましたし、生活の基準そのものが変わった。仕事をしていく上で、素材的にもシルエット的にも、この人には会えるけどこの人に会いに行く時には着て行けないな、とかいろいろと出てくるわけです。オトナになったってことでしょうか(笑)。
今思うと愛情いっぱいの家庭でしたね。
こうみえても、実は父が堅めの企業に勤めているのでわりと厳しい家だったんです。門限もありましたし。母はかなりアクティブで、クルマがあるのに自転車で何駅も離れたスーパーとかに出かけちゃう。もともと洋裁が好きだったみたいで、小さいころは手づくりのものばかり着せられていました。バッグとワンピースがお揃いということもけっこうありましたね。
幼稚園はたまたまミッション系で、エプロンをするのが一種の制服。母がすっごいフリルいっぱいのブリブリのエプロンをつくってくれたのを覚えています。上履きなんかもインディゴで後染めして、ゴムを切り取って履き口全部にレースの縁取りを施してくれたり。すっかり原型を留めてませんでした(笑)。
一方、父はどちらかというとスポーティな服装をさせるのが好きだったのか、週末になると私もTシャツとズボン。少し大きくなってからは平日もジーパンのボーイッシュなスタイルが多かったですね。でもお誕生日とかイベントのときはブリブリの女の子の格好をする、そんな両極端なファッションでした。
幼稚園はたまたまミッション系で、エプロンをするのが一種の制服。母がすっごいフリルいっぱいのブリブリのエプロンをつくってくれたのを覚えています。上履きなんかもインディゴで後染めして、ゴムを切り取って履き口全部にレースの縁取りを施してくれたり。すっかり原型を留めてませんでした(笑)。
一方、父はどちらかというとスポーティな服装をさせるのが好きだったのか、週末になると私もTシャツとズボン。少し大きくなってからは平日もジーパンのボーイッシュなスタイルが多かったですね。でもお誕生日とかイベントのときはブリブリの女の子の格好をする、そんな両極端なファッションでした。
ファッション大好き!が気がついたら仕事になっていた。
基本的に実家大好きなんですが、地元も大好き。今でもちょっとでも時間が取れると実家に帰ります。近所の商店街とかを歩いていると、「あら容子ちゃん、お帰り!」っておばちゃんとかによく声をかけられるんですよ。なかにはお米とか野菜とかをお土産にってくれちゃったり(笑)。
思えば子どものころからよくよその家でも遊んでました。そうそう、隣りにカッコイイおばさん、っていうか、お姉さんとの中間ぐらいの年齢のお母さんが住んでいて、よく可愛がってもらいました。お化粧がちょっと濃いめでカッコイイ。夏休みになるとネイルを塗ってくれたり、買い物に連れて行ってくれたり。原宿に最初に連れて行ってくれたのもその女性でした。それがね、なんと今、その人の娘さんがマウジーの大宮店で働いているんですよ。お店に行った時にそれを聞いてびっくりしました!
中学生の頃は卒業したら美容師さんになりたいって思っていました。でも、母が「お願いだから世間体があるから高校には行って」と言うので、「じゃあ、制服がかわいいところがいい」って言ったら、私立は金銭的にムリだから公立にして、ということで県立の高校に進学しました(笑)。
高校に通うようになってからは、早く結婚したい!と思っていました。まさかこんなに働くなんてぜんぜん思ってなくて、結婚してだんなさんに食べさせてもらうもんだと思ってたんですよ。結婚するんだったら、建築系の人がいいなあと思っていたので、建築系の専門学校に進学した。安易でしょ(笑)。そんな動機だから、週末はリトルニューヨークのショップスタッフのアルバイト。それも今思えば、遊び全開!っていう感じの不真面目な販売員でした。わがままなスケジュール組みしちゃうし、毎日怒られてましたね。
思えば子どものころからよくよその家でも遊んでました。そうそう、隣りにカッコイイおばさん、っていうか、お姉さんとの中間ぐらいの年齢のお母さんが住んでいて、よく可愛がってもらいました。お化粧がちょっと濃いめでカッコイイ。夏休みになるとネイルを塗ってくれたり、買い物に連れて行ってくれたり。原宿に最初に連れて行ってくれたのもその女性でした。それがね、なんと今、その人の娘さんがマウジーの大宮店で働いているんですよ。お店に行った時にそれを聞いてびっくりしました!
中学生の頃は卒業したら美容師さんになりたいって思っていました。でも、母が「お願いだから世間体があるから高校には行って」と言うので、「じゃあ、制服がかわいいところがいい」って言ったら、私立は金銭的にムリだから公立にして、ということで県立の高校に進学しました(笑)。
高校に通うようになってからは、早く結婚したい!と思っていました。まさかこんなに働くなんてぜんぜん思ってなくて、結婚してだんなさんに食べさせてもらうもんだと思ってたんですよ。結婚するんだったら、建築系の人がいいなあと思っていたので、建築系の専門学校に進学した。安易でしょ(笑)。そんな動機だから、週末はリトルニューヨークのショップスタッフのアルバイト。それも今思えば、遊び全開!っていう感じの不真面目な販売員でした。わがままなスケジュール組みしちゃうし、毎日怒られてましたね。
「カリスマ販売員」ブームがもたらしたこと
ショップスタッフの仕事が面白いと思うようになったのは、カパルアで渡邊加奈さんと出会ってからです。
とにかく加奈さんといっしょに働きたい!という一心で加奈さんがエゴイストに入社したので私も追いかけてしまいました。ものすごく勉強になったんですが、ギャルブームの盛り上がりとともに名前ばっかりが騒がれちゃって。どんどん自分とは別人の「カリスマ販売員、森本容子」という人物像が作られていった。雑誌の撮影も毎日のように入るようになり、コンビニで販売されている雑誌の3〜4冊の表紙に載ることもよくありました。今思うとすごい生活してましたね。
「カリスマ販売員」のブームはたぶん雑誌によるものが大きかったと思います。それまで雑誌に一般の人が載ることなんてなかったじゃないですか。雑誌に掲載されると店側は商品が売れるからどんどん出て欲しいと思っていたようです。そんななか、ある日自分だけが冷めてるって思った。ちょうど弟の病気のこともあって家のほうもたいへんだったので、心身ともに消耗してしまい、辞めさせてもらうことにしたんです。99年の秋のことでした。
今は毎日のようにスタッフになりたいという応募が来ますし、大学の新卒応募者も少なくありません。以前よりショップスタッフ、販売員という仕事の地位が確実に上がっていると思います。若い子たちにとっての憧れの職業のひとつになった。これは「カリスマ販売員」のブームがもたらしたひとつの功績じゃないかな、って思っています。
とにかく加奈さんといっしょに働きたい!という一心で加奈さんがエゴイストに入社したので私も追いかけてしまいました。ものすごく勉強になったんですが、ギャルブームの盛り上がりとともに名前ばっかりが騒がれちゃって。どんどん自分とは別人の「カリスマ販売員、森本容子」という人物像が作られていった。雑誌の撮影も毎日のように入るようになり、コンビニで販売されている雑誌の3〜4冊の表紙に載ることもよくありました。今思うとすごい生活してましたね。
「カリスマ販売員」のブームはたぶん雑誌によるものが大きかったと思います。それまで雑誌に一般の人が載ることなんてなかったじゃないですか。雑誌に掲載されると店側は商品が売れるからどんどん出て欲しいと思っていたようです。そんななか、ある日自分だけが冷めてるって思った。ちょうど弟の病気のこともあって家のほうもたいへんだったので、心身ともに消耗してしまい、辞めさせてもらうことにしたんです。99年の秋のことでした。
今は毎日のようにスタッフになりたいという応募が来ますし、大学の新卒応募者も少なくありません。以前よりショップスタッフ、販売員という仕事の地位が確実に上がっていると思います。若い子たちにとっての憧れの職業のひとつになった。これは「カリスマ販売員」のブームがもたらしたひとつの功績じゃないかな、って思っています。
23歳と28歳で起業
エゴイストを辞めるときはいろいろあったのでかなり疲れてしまい、しばらくは弟や家族とゆっくり過ごそうと思っていました。しかし、今のオーナーがいっしょにブランドを立ち上げようと誘ってくれたんです。
わたし自身は服をつくるための専門の勉強はしていません。スタイリングやフィッティングがすべて。でも、販売という仕事を通して、お客さんがどんなものを求めていて、どんな風に着こなすときれいに見えるか、どこがどうだったら売りやすいか、というリアルなニーズに関しては自信がありました。そんな現場側からの服づくりをしてみたいという思いが膨らみ、ブランドを立ち上げる決心しました。今思えば、ずっと自分が着たい服が着られなくてフラストレーションが溜まっていたので、本当に着たい服がつくりたーい!という思いが強くなっていたのかもしれません。
そうはいっても当時わたしはまだ23歳。オーナーも28歳でしたから、当然両親は大反対。でも、オーナーはわざわざ春日部の実家まで出向いても両親を説得してくれて。ちょうどギャル雑誌だけでなく、新聞やビジネス雑誌とかでも「カリスマ販売員」が話題になっていたこともあり、両親も自分の娘がどんなことをしているのかが少しだけ分かるようになっていた。最終的には「頑張りなさい」って応援してくれました。
最初はすべて手探りでした。ジーンズは加工工場に直接出向き、ここをこんな感じにしてください、と何度も何度も伝えてつくってもらいました。そういった工場は1型で何万本と縫製してますから、うちがお願いするロットなんてハナクソみたいなもの。決してビジネスとしてはいい話じゃないんですが、工場の職人の方たちは「あんたたち若いのにえらいねえ」と面白がって協力してくれました。
商品企画もこだわりましたが、販売の現場でもいろいろ試行錯誤しました。マウジーは109の中でも比較的トンガった存在でいたかったので、そこを崩してはいけない。たとえば、今キャップが流行っているとしますよね。今売れているアイテムだから店に置くと必ず売れる。でも、いつまでも置いているのではブランドとしてはフォロアーになってしまう。売れている時にどこで外すかを見極めるのも重要なポイントなんです。
今はトレンドのサイクルが早いですよね。シーズンの立ち上がりも早いしセールも早い。でも、お客さんはセールが終わっても充分購買意欲がありますから、セール後の次のシーズンに繋げる商品を用意する。都市部と地方店の納品日を調節したり、ウェブや携帯による通販で売ったりなど、営業的にもかなり工夫をこらしています。まあ、どこのブランドでもやってることだと思いますけど。
わたし自身は服をつくるための専門の勉強はしていません。スタイリングやフィッティングがすべて。でも、販売という仕事を通して、お客さんがどんなものを求めていて、どんな風に着こなすときれいに見えるか、どこがどうだったら売りやすいか、というリアルなニーズに関しては自信がありました。そんな現場側からの服づくりをしてみたいという思いが膨らみ、ブランドを立ち上げる決心しました。今思えば、ずっと自分が着たい服が着られなくてフラストレーションが溜まっていたので、本当に着たい服がつくりたーい!という思いが強くなっていたのかもしれません。
そうはいっても当時わたしはまだ23歳。オーナーも28歳でしたから、当然両親は大反対。でも、オーナーはわざわざ春日部の実家まで出向いても両親を説得してくれて。ちょうどギャル雑誌だけでなく、新聞やビジネス雑誌とかでも「カリスマ販売員」が話題になっていたこともあり、両親も自分の娘がどんなことをしているのかが少しだけ分かるようになっていた。最終的には「頑張りなさい」って応援してくれました。
最初はすべて手探りでした。ジーンズは加工工場に直接出向き、ここをこんな感じにしてください、と何度も何度も伝えてつくってもらいました。そういった工場は1型で何万本と縫製してますから、うちがお願いするロットなんてハナクソみたいなもの。決してビジネスとしてはいい話じゃないんですが、工場の職人の方たちは「あんたたち若いのにえらいねえ」と面白がって協力してくれました。
商品企画もこだわりましたが、販売の現場でもいろいろ試行錯誤しました。マウジーは109の中でも比較的トンガった存在でいたかったので、そこを崩してはいけない。たとえば、今キャップが流行っているとしますよね。今売れているアイテムだから店に置くと必ず売れる。でも、いつまでも置いているのではブランドとしてはフォロアーになってしまう。売れている時にどこで外すかを見極めるのも重要なポイントなんです。
今はトレンドのサイクルが早いですよね。シーズンの立ち上がりも早いしセールも早い。でも、お客さんはセールが終わっても充分購買意欲がありますから、セール後の次のシーズンに繋げる商品を用意する。都市部と地方店の納品日を調節したり、ウェブや携帯による通販で売ったりなど、営業的にもかなり工夫をこらしています。まあ、どこのブランドでもやってることだと思いますけど。
「プラチナム・マウジー」の誕生
最初は数名で始めたマウジーですが、5期を過ぎた今では全国に22店舗、アルバイトのスタッフも入れると全部で230名にまで成長しました。ブランドが巨大化したことで、商品もマス化し、営業と企画の要望が合致しなくなってきた。そのとき既にわたしひとりでは商品企画が賄いきれないのでデザインチームを設けていたんですが、そのデザイナーの多くが若い世代になってきたことで、どうしても当初のマウジーのコンセプトとはズレが生じてきた。このことはけっこう前から悩んでいて、何度も何度も幹部会議を開きました。自分とともにマウジーというブランドも年齢を重ねていくかどうかという点ではずいぶん検討しました。でも最終的には野生のカンかな(笑)。今一度27歳の森本容子が着たい服をつくってみようという決心しました。
準備期間は約1年。久しぶりに燃えましたね。うちの会社は熱い人が多いので、新ブランドを立ち上げることが決まるとみんなで盛り上げて頑張ろー!っていういい雰囲気になるんです。そうそう、マウジー立ち上げた時にオーナーといっしょに百貨店営業に手ぶらで行ったんです。今回も昔と同じようにプレゼンに行ったら、「営業に手ぶらで来るなんてあなたたちくらいですよ!」って呆れられました。でも、「今日のところは熱い思いを語ります!」って言って1時間以上も思いを伝えました(笑)。
ブランド名は「PLATINUM MOUSSY(プラチナムマウジー)」。コンセプトは「LUXUALLY CASUAL(ラクジュアリー・カジュアル)」です。たとえば、デニムをピンヒールを合わせることでカジュアルアップし、ファーを無造作に纏うことでドレスダウンに着こなす。マウジーが持っているメンズのこだわりを残しつつ、上質な素材を用いて、より女らしく美しいシルエットになるようデザインのディテールにもこだわりました。
いわゆる「マルキュー世代」は、大人になったからといって、コンサバでエレガントな服が着たいと思わないじゃないですか。身体の線を強調したり肌を見せたりとか女をモロにアピールするのではなく、力が入ってなさそうで、女であることが楽しめる服をたくさんつくりたい。とくに、これまでマウジーを知らなかった人に、こんなのどうですか?って提案したいと思っています。
個人的には、今も昔もブルーデニムにピンヒールという、カジュアル×セクシーのスタイルがいちばん好きです。マウジーもメンズっぽいアイテムを女の子が着ることでこんなにセクシーになりますよ、っていうのがコンセプトでしたし、基本的には変わっていませんね。全身キメるんでもない、、一点豪華主義でもない。ボロボロのデニムを履いているのに靴はマノロとか、カジュアルなのにツメはものすごく手入れされているとか。そんなさり気ないイイ女、すれ違う人に「2度見されるような女」が私の理想とする「大人の女」なんです。
準備期間は約1年。久しぶりに燃えましたね。うちの会社は熱い人が多いので、新ブランドを立ち上げることが決まるとみんなで盛り上げて頑張ろー!っていういい雰囲気になるんです。そうそう、マウジー立ち上げた時にオーナーといっしょに百貨店営業に手ぶらで行ったんです。今回も昔と同じようにプレゼンに行ったら、「営業に手ぶらで来るなんてあなたたちくらいですよ!」って呆れられました。でも、「今日のところは熱い思いを語ります!」って言って1時間以上も思いを伝えました(笑)。
ブランド名は「PLATINUM MOUSSY(プラチナムマウジー)」。コンセプトは「LUXUALLY CASUAL(ラクジュアリー・カジュアル)」です。たとえば、デニムをピンヒールを合わせることでカジュアルアップし、ファーを無造作に纏うことでドレスダウンに着こなす。マウジーが持っているメンズのこだわりを残しつつ、上質な素材を用いて、より女らしく美しいシルエットになるようデザインのディテールにもこだわりました。
いわゆる「マルキュー世代」は、大人になったからといって、コンサバでエレガントな服が着たいと思わないじゃないですか。身体の線を強調したり肌を見せたりとか女をモロにアピールするのではなく、力が入ってなさそうで、女であることが楽しめる服をたくさんつくりたい。とくに、これまでマウジーを知らなかった人に、こんなのどうですか?って提案したいと思っています。
個人的には、今も昔もブルーデニムにピンヒールという、カジュアル×セクシーのスタイルがいちばん好きです。マウジーもメンズっぽいアイテムを女の子が着ることでこんなにセクシーになりますよ、っていうのがコンセプトでしたし、基本的には変わっていませんね。全身キメるんでもない、、一点豪華主義でもない。ボロボロのデニムを履いているのに靴はマノロとか、カジュアルなのにツメはものすごく手入れされているとか。そんなさり気ないイイ女、すれ違う人に「2度見されるような女」が私の理想とする「大人の女」なんです。