2005.10.10
その他|OTHERS

寺井元一/TERAI MOTOKAZU インタビュー

コンプレックスの固まりのような子どもでした。

実は僕、コンプレックスありまくりの子どもだったんです。小学校時代に先天的な網膜剥離が見つかって、衝撃による失明の危険があるとかで、スポーツをあまりやらせてもらえなかったりして。喧嘩なんてとてもとても。小学校時代とか、スポーツできる奴って人気あるじゃないですか、それと比べてなんか自分はカッコ悪いって悩んでましたね。

中学から灘中学校に行って、そのまま灘高校に進学した。学年の過半数ぐらいが東大か京大に行く進学校なんですけど、僕の中では東大京大って言ってるのが今いちカッコよくないなあって思うところがあった。狭い世界観じゃないですか。今思うと、単に自分が落ちこぼれてただけかもしれないんですけど(笑)。その時は、そういうエリートコースみたいなものが気持ち悪くて、はみ出してる奴がカッコよく見えたんです。

思春期ってやっぱり、見た目とか気になるじゃないですか。僕、高校時代にアトピー性皮膚炎が発症して。基本的には治りにくくて徐々に調子が悪くなってくるんです。こんなんで一生やっていくなんて、俺って悲惨だ、最悪だと絶望しましたね。で、生活が歪むんですけど、あんまりカッコよくないグレ方でした。ゲーセン行こう、みたいな。とにかく、優等生でもないし不良でもないし、どっちにもなれなくて。中途半端な自分に自信がなくて、なにに対しても覇気がなかった。

阪神大震災が教えてくれたこと

これも出来ない、あれもダメ、これもやっちゃいけない、どうせ俺はいつかは死ぬし、もうお先真っ暗、みたいな。そういう積もり積もったものがある日バーンと反動がきちゃって。俺も何かやらないと嘘だ、もっと自由にやっていいんじゃないかって、開き直ったんです。やりたい事をもっと自由に追求してもいいんじゃないの?受験勉強しろと言われてやるのも変だし、東大京大いかなきゃダメっていうのも嘘だし、自分しか出来ないことを見つけてやりたい、みたいな。それが高校2年生ぐらい。

そういう折に新聞を眺めていて、ふと閃いたのが政治関係だったんです。政治の世界ってそのころ新聞でいっぱい叩かれていて、すごくダメな印象があって、最近でも基本的にそうかもしれないですけど。そんなダメな業界だったら、自分でもなんかできるんじゃないかなと思ったんです。僕がカッコいいなあと思った奴は政治なんて興味なさそうだし、きっと穴場だ、政治が好きでもなんでもない自分だからこそできることが多分ある、暴れてやれ、みたいな(笑)。音楽でロックやパンクをやってる奴がやろうとしてることを、政治なら僕もできる気がした。

もう1つはさっきのアトピー、その病気とすごく向かい合って。治らないかもしれないってことがずっと怖かったんです。でもある日、もう治らないんだということを受け入れてみた。そうすると、急に気持ちが落ち着いたんです。どうせ治らないって開き直ってるから、逆にちょっとした地道な努力ができた。生活習慣を改善するぐらいのことですが。そうしたら、調子が不思議によくなったんです。病気が治らないんだと覚悟したら、不安が消えて、逆に治りだした。人生も同じで、今がどんなに酷くても、目を背けずに地道なことをやれば今からでもやり直せる、再スタートできるって思ったんです。

そうなって、逆に改めて受験勉強を大真面目にやろうという気持ちになれた。傍からするとまっとうになっただけなんですが。「お、うちの息子は急にやる気出したぞ」みたいな(笑)。僕の中では全然違うベクトルで、パンクの精神で受験勉強やるんだ、みたいな感じだったんですけどね。

そして、僕がやる気を出したタイミングで阪神大地震がきた。家の中がぐしゃぐしゃになって、街がひどいことになって。地元の伊丹駅が潰れてぺしゃんこになってて、当日学校に自転車で無理矢理行ったんですけど、体育館に遺体がだーって並べられてた。被害のひどかった東灘区にあるんですよ、灘高校は。教室に行ったら自衛隊が炊き出しやってるし、もうぐちゃぐちゃですよ。商店街は火が出てるし。

その結果、二通りの生き方があり得たと思うんです。いつこんな災難があるか分からないから、人生はもう安パイで、冒険なんかしたくない、おとなしくしてる方がいいよっていう奴と。逆に腹がくくれて、どうせいつか死ぬんだし、何が起きるか分かんないんだから、行くところまで行こうぜ、みたいな奴。とりあえず、僕は後者だと思うんですけど、そういう意味では僕の生き方を後押ししてくれた地震に感謝しています。

震災で学校が2ヶ月なかったので暇じゃないですか。そこで、僕は中1のカリキュラムから全部受験勉強のやり直し。いいタイミングでしたね。毎日ずっと図書館で勉強して。いろんな本を読んだりとか、友だちと遊んだりとか。幸い時間がいっぱいあったんで、その時間は自分のリセットのための貴重な時間になりました。

政治への関わり

受験勉強のやり直しは出来たんですけど、結局東大には受からなくて早稲田の政経に進みました。政治に関わる上で、いちばん良いとされる環境に行けなかったのはイタいなって思いましたけど、東大の授業受けたかったら聴講に行けばいい。でも、どっちにせよ大学の授業のほとんどは教科書1冊を1年かけてやるんです。教科書1冊なんて1週間あれば読めちゃうんで、効率が悪いし授業は意味がないなと思って行かなくなりました。失礼な学生ですけど。

今は大学の授業もずいぶんと変わっているそうですが、当時は学校に行くことがムダだと思ってました。時間の無駄遣いだって。バイトしたり友だちとしゃべってたりする方が、ある種の勉強になる。ライブとかクラブに行くとか、雑誌やマンガ読むとか所詮そんな程度なんですけど、そっちの方が役に立つって思ってました。今も、、ちょっとは思ってます(笑)

大学に入学した時は、政治の業界ノリみたいなのがあるとして、それに絶対漬からないようにしようと思っていたので、最初の1年間は社会勉強に当てることにしたんです。まあダラダラと遊び回ってるように見えたようですが。あれこれ音楽を聞いてみたり、建築とか服飾とか興味持って本読んだりして。いわゆる大学生生活を満喫して、そろそろ縁遠い政治の世界に行ってみようか、と思ったのが2年生の時です。

丁稚奉公時代

まずは大学の政治サークルに入部した。いろんな政党に行って雑務を手伝うんですが、端から覗いてるだけなので、ダメなところっていっぱい目につくんですよ。ヘタクソだなとか、ダサいなとか。着たくないTシャツ着せられたりとか、配りたくないフライヤーみたいなのを配らされたりとか、こんな話聞いてもつまんねぇや、俺だったらこうするなって。反面教師のように観察してましたね。

そんなある日、たまたま高校時代の親友の関係で、某代議士の事務所を紹介してもらってボランンティアスタッフとして押し掛けて働くことになった。代議士の秘書みたいなことっていうか丁稚奉公ですね。選挙の時は選挙の雑務、通常はWEB関係っていうかメールの処理というかIT担当みたいな仕事をしてました。メルマガを作りましょうと議員に提案してみたり。

僕の中では、基礎から選挙のことを勉強しようと思って始めたんですが、だんだん何かが違うと感じるようになってきた。休みの日は1年の時につるんでた奴らと遊びたくなるんですよ。政治関係の人とは、どっかなんかこう、休日に遊びたいとか、飲もうとか、家に遊びに行くという関係にならなくて。そんななか、大学4年の春に、議員のプロモーションビデオを作るべきだという話が持ち上がったんです。で、僕が作る、って手を挙げたんです。

僕はちょうどその時に友だちと映画のサークルを作ったばっかりでした。というか実際は、なんかやろう、もっと遊ぼう、っていう延長線上にできたサークルなんですが。何やるのかって訊かれたら映画って言おうぜ、みたいなレベルのものです。恥ずかしいお話ですけど(苦笑)。いちおう長編ものも撮りましたけど、途中でいろいろあってお蔵入りしました。そういうわけでなにも形には残ってないんです。

プロモーションビデオについては、そのサークルの仲間に呼びかけて、3分ものの作品を作りました。ジャズをBGMに代議士のモノローグが乗っかる音声に、子ども時代から現在に至るまでの代議士の写真がモノクロで代わる代わる現れる映像、最後はカラーで最近の選挙の様子が映るっていう内容なんですけど、それがけっこう好評だったんです。

その時、僕は1人では何も出来ないけれど、代議士っていう素材があって、小さな予算があって、映画撮りたいっていう仲間がいて、カメラ回せる奴がいて編集する奴がいて、そういうのを僕が集めてきたら映像が出来た。その頃はもう大学4年だから、周りの仲間も就職がどうとか、夢を諦めようかとか、悩んでる時期だったけど、仲間の作品を発表する機会を作って応援できた。それで、政治よりもこっちの方が素敵だと思ったんです。もともと同世代のカッコいい奴と一緒になにか変化を巻き起こしたくて政治を志してたから、これだって思った。ある種のプロデュース業というか。それがきっかけでもう、いわゆる政治の世界から離れようと決めたんです。
03年には第4回渋谷区民環境会議の
パネラーとして参加

サークル「komposition(コンポジション)」設立へ

僕が政治から離れるようになった頃、映画を撮ってた仲間がなんかがイベントをやりたいって言い出した。いろんな文科系のアーティストとか、ファッションショーやってるサークルとか、絵描いてたり写真やってる奴がいたりとか、そういうクリエイティブな人間をピックアップしたイベントをクラブでやろうっていう話になったんです。例のプロモーションビデオも流したいし、せっかくだから代議士にDJやってもらおうか、という話になり、連絡したら、ちょっとおまえよくわからないから企画書みたいなの書いてって言われて、A4一枚にわーって書いて送ったんです。若い世代のために政治をやっている、と謳うなら、政治家が若い奴らの溜まり場に飛び込んでこなきゃ嘘だ、って。そうしたら、代議士が、行くわって言って本当に来てくれたんです。

僕がスーツはダメです、と言ったら、衣装として用意したダボダボの服装に着替えてくれて。DJも一応やってもらい、演説(?)してもらって。クラブでですよ。なんかよく分からないけど、盛り上がりましたね。代議士はそれなりに楽しんでくれたんじゃないですかね。僕の口車に乗せられたのが半分、乗ってやったのが半分、みたいな感じでしょうか。「おまえに今日はまかせる」みたいなこと言われてすごく嬉しかった。あのときの代議士は、本当にカッコよかった。一方で、やっぱり自分がやるのは今の政治とはちょっと違う、なにかとなにかを繋いで、新しいことを生むことだ、と改めて思いました。

このとき一緒にイベントをやった仲間が母体になって、komposition(コンポジション)というサークルを作りました。社会的なメッセージを、自分たちが楽しめるかたちで発信しよう、というコンセプトで。某クラブのオーナーさんと懇意になって、自分たちがイベントを主催する際に会場代を無料にしてもらうかわり、風営法反対の署名を集める、という仕組みをつくったりしてました。仲間がノーリスクでイベントを開催できる環境をつくったんです。あとは、東京青年会議所さんと恊働して、若者と政治家のトークバトル企画。いわゆる普通の若い奴がムカついてることを全部議員たちにぶつけてみたいと思って。朝ナマと、口ゲンカ選手権を混ぜて1にすると面白いぞって思ったんです。だいたいこの2つが1年目の活動です。でも1年ぐらい活動したら、みんな疲れちゃって。僕はこれを仕事にしたいって思っていたし、仲間ともそういう話をしていたけど、食っていける見込みはなかった。で、僕はサークルではダメだと思ったんです。思い切って法人化というか事業体にしなきゃダメだと。

ただ、自分たちは金儲けがしたくて活動してる訳じゃなかったので、会社にするのは違和感があったし、もちろんお金がまわる事業計画も作れなかった。で、まだ人生に切羽詰まってない、つまり若いスタッフを集めて、サークルの一部をNPO法人化させるということを決めました。なぜサークルの一部なのかというと、法人化に参加しなかったスタッフにもkompositionの一員ではあり続けて欲しかったから。だから法人化は「kompositon-standard」という名称で申請しました。東京都の認証がおりてNPO法人格が取れたのが、2002年11月です。

NPO法人「kompositon」設立

kompositon-standardは「若者の義務と権利の追求」をテーマに掲げていたんですが、最初はなにもしてなかったですね(苦笑)。そもそも会議なんかも街の喫茶店でしていたぐらいなので、まともに事業なんてできなくて。僕は法人化の時期に大学院を休学したので、時間はたっぷりあったんですが資金がない。寄付とかももちろんない。資金づくりのために、知り合いに会社を紹介してもらって、応援してくれと頼んだら仕事をくれたので、それをこなして資金貯め始めた。なにやってたのかと言われたら、いわゆる請負ですよね。なにかを運ぶとか、配るとか、ホームページを制作するとか、なんでもかんでもやってました。

そうこうしているうちに、少しずつ売上が伸びてきた。とりあえず事務所ぐらい構えたいと思って、でも敷金礼金はないから、知り合いのところに間借りだ、と探していました。そうしたら、アドバイザー的な立場をお願いしていた理事の1人が別に事業をやっていて、その事務所の一角が空いているので是非、ということになった。六本木の裏の一軒家なんですけど。これで一国一城の主だ、これでミーティングが毎日出来る、コーヒー代とか払わなくても追い出されないね、と嬉しかったですね。

場所はできたけど、活動は相変わらず。核となる活動のアイデアをずっと話したったりしたんですが、結論はなかなかでませんでした。その頃は大学院で研究していて、若者の価値観が変わってきたことで社会に大きな変化が起きる、ってことは確信してたんですけど、具体的になにをやったらいいか検討がつかず、相変わらず請負の仕事を続けていました。とはいえ、いつまでもここに居るわけにはいかないので、お金をちょっとずつ貯めて。そのうち、理事が事業を辞めるということで、出ていかなくてはならなくなった。六本木は外国人とキャバクラ好きのおじさんが多いということに辟易してたから、あまり迷いはありませんでしたね。敷金礼金ぐらいは払えるようになっていたので、どこに行こうかと考えて、自分たち世代の溜まり場=渋谷に行くべきだと。それで渋谷の今の事務所を借りて、移りました。

今思うと確実なことはひとつもなかったです。逆に、確実なことを求めてたら辞めてたかもしれない。現に周りで辞めていった人間が何人もいましたし。ただ、今やってることが、未来の世の中のためにすごく重要なことだと信じて動いてました。だから、最後に自分1人になってもやり続けようっていう決心のようなものはありましたね。先が見えないことを覚悟してて、そのおかげで地道に活動し続けることができたのかもしれません。そのあたりは高校時代に学んだことが生かされているのかもしれないと思います。

渋谷へ、そしてNPO法人「KOMPOSITION」に。

渋谷に移って来たら、例の事業を辞めた理事が事務所に出入りしてくれるようになり、改めてNPOとして活動しようということになりました。それで最初は渋谷の街を歩き回っていたんです。そうしたら、落書き問題があった。落書きのなかにも作者の才能を感じさせるものがあるよね、壁を清掃して彼らに絵を描かせてあげたら落書き防止にもなるかもだよね、っていう話になって、街の壁をキャンバスにしようっていう企画を立てたんです。それが最初の真面目な大仕事です。

さっそく行政さんに企画書を出したんだけど何回も跳ね返されるわけですよ。消すのはOK、描くのはダメって言われて。消すのはそりゃいいですよね。でもまあOK取れたんだから消すことから始めようよってことになった。ちょうどその頃、komposition-standardっていう名前は長過ぎるし分かりにくいという意見が出て、名前を変えました。現在の「KOMPOSITION」です。もとの名前にただ戻すのは嫌で、大文字にしました。昔の仲間のことを尊重したかったのと、あとは活動がもっと大きくなるようにと思ってそうしたんです。

絵の方は、2003年の10月末からずっと、壁の清掃を10人ぐらいでやってました。週1-2回、消して、消して消しまくった。本当は描きたいんだけど、今日も消してきました、って渋谷区に伝え続けたんです。壁を清掃し始めて5ヶ月ぐらいですかね、区のほうでもさすがに1回描いてみなよ、という話になった。それが、リーガルウォールのはじまりです。04年3月のことです。

自分たちにできることから始めただけなんです。

最初は思いつきです。もちろん、いろいろと事例を調べたり、計画を練ったり、分析もしたけど、情熱以外なにもなかった僕らには、絶対成功する保証なんてないんですよ。だから、やれることから、思いついたときの情熱のまま、どんどんカラダを動かして挑戦してました。絵ならペンキとスプレーがあれば描けるわけで、お金や道具がなくてもそれなりにやれると思った。だから絵だったんです。今でもそうだけど、スポーツでも、アートでもよかったんです、音楽や映像とかでも。

でも、やっぱりお金がないと映像自体出来ないし、上映する場所を借りるのにもお金もかかる。今の俺たちじゃ出来ないよっていう結果に行き着いた。じゃあ人からお金を借りるのかっていったらそういうもんじゃない、と。自分らお金を増やすんだ、自分たちの思いが貫きながらやりたい、っていうことに至った。たまたま落書き問題だったらいけるんじゃない?そんな感じです。

僕らが考えるボランティア

僕らは内部で、いつも「1 lose 1 win」って言ってます。実は「一勝一敗」を英語にしただけなんですけど(苦笑)。自分たち若い世代が襟を正して、やるべき義務を果たしてはじめて、主張も聞いてもらえる。だから最初にひとつ負けることで、例えばまず自分たちが奉仕することで、僕らの企画が採用されるんだよっていう考え方です。すすんで苦労しよう、義務を果たそう、ってことです。それが僕らにとってのボランティアなんです。

正直、KOMPOSITIONはボランティア好きの集団でもなんでもないんですよ、ボランティアが好き、っていうのがどこか嘘くさいなとか、ちょっと無理してる感じがしちゃうんです。何かしら自分なりに先を見た時に、今こういうことやりたい、そのために自然とボランティアに行き着いただけっていうのが良いと思うんです。かっこよく言うと、若い奴の日常生活の中に溶け込んだボランティア活動をしたいんです。自分なりに社会に溶け込んで、いいことやって、その結果として自分たちの自己実現が出来る。夢を追いかけるきっかけをつくる。そんな感じです。

やりたいことやろう。最悪、就職すればいいじゃん。

1人ひとりやりたいことあるんだったら全部やったらいいじゃんって思いますね。全員成功するとは限らない。でも、チャレンジもせずに諦めて言い訳する人が多すぎる。僕もだけど、自分にしか出来ないことがきっとあると思うんです。これだって思ったら、その瞬間から突っ走ればいい。ダメだったらもう1回考えて違うことやればいいし、最悪就職すればいい。そう、最悪、就職すればいいんですよ。そのぐらいの気持ちでいたら、就職しないで済むみたいです(笑)。

最近は、なんだか「公園」に関わることが多いですね。公園みたいな公共スペースを活用して、才能を支援したり、過ごしやすい世の中を作れないかって。今取り組んでいるのは、月に1回誰でも、気持ち良くランニングできる場所をつくろうという企画。都市部って、実は走る場所にも事欠く現状なんですよね。それとまた別に、公園にあるバスケットコートを使って、草の根のバスケ大会の企画を始めていたりもします。

あとは、絵の方では公園だけじゃなくて、新しい場所での活動もいくつか考えています。まだ公表できないですけど、うまくいけば面白い企画なので、期待してもらえたら嬉しいですね。


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