音楽オタク、ニューヨークに渡る。
東京に出てきてからも基本的に「音楽オタク」バイト先はタワーレコードでした。92年に初めて行った海外がニューヨークで、ものすごく気に入っちゃったんです。当然、クラブにも行くじゃない? それはもう、みんなもの凄く盛り上がっていてすごい迫力。音楽で1つになるっていう感じだったんです。その頃の日本のクラブといったら友だち同士が集まってまったり喋ったりっていうラウンジが主流。サークルみたいなゆるーい感じっていうのかな。でも、ニューヨークはぜんぜん違った。ラジオをつけてもいろんなジャンルの音楽が24時間聴けたし、レコードも安いしね。そういう基本的な音楽を取り巻く環境が全く違ったことにカルチャーショックを受けたんです。もともと漠然と音楽の仕事に就ければいいなとは思ってたので、そのためにも英語を1年ぐらい勉強しようかな。最初はそんなシンプルな理由だったんです。そんな、ちょっと住んでみよっかな、っていう軽い気持ちの1年が、気づいたら10年になっちゃった(笑)。
「メンズ社会」での女性DJデビュー
もちろん、当時は自分がニューヨークでDJっていう仕事でやっていけるなんて思ってもいませんでしたし、そもそもDJが仕事として成り立つなんて思ったこともなかった。ヒップホップは黒人の男の人がメインの職場だしね。ただ、音楽が好きだったので、学校に行きながらアルバイトみたいな感じで、ラウンジでレジデンスDJみたいな感じで1日BGMかけたり。そういう小さな仕事から入っていきました。
そのうち何人か日本人の音楽好きの友だちができ、DJマスターキーとかDJユキジルシとかね。そういう音楽仲間たちとクラブに行ったり、誰かの家に集まってはラジオをみんなで聴いたり、順番にDJをやったり。そんな音楽漬けって感じの日々をおくっていました。そのときの仲間たちには精神的にずいぶん支えられたっていうのはありますよね。
94年頃だったか、SOHOにある「MATCH」っていうヒップなレストランバーがあったんですけど、そこで毎週金曜日にDJするようになった。そこで何年かやってたら、だんだんいろんな人からパーティあるからやってみない?とか頼まれるようになってきたんです。最初はそこまででもなかったんですが、いろんな仕事をこなすようになってきたら、どんどん欲が出てきて。バイトや趣味じゃなく、職業DJとしての意識が芽生えたっていうのかな。
それからだんだんいろいろなクラブで回すようになって、その頃「N.Y.」というクラブでDJをやっていたら、たまたまニューヨークのヒップホップ界のトップDJのFUNKMASTER FLEX(ファンクマスター・フレックス)っていう人が来ていて、自分の事務所に入らないかって誘われたんです。断る理由はまったくなかったので、即OKしました。
その頃は、週4日、5日ぐらいDJをやってて忙しかったんですが、さらに、ヒルズ系、あ、ビバリーヒルズね、のパーティとかにも呼ばれるようになって大忙し。アーティストとかスポーツ選手とか。マイク・タイソンの家にも行きましたよ。ものすごい豪邸で、なんと家に大きなディスコがあるんですよ、「クラブTKO」っていうんです。「テクニカル・ノックアウト」の略(笑)。
アジア人というマイノリティを強みに
私がみんなに喜ばれたのは、ヒップホップとかR&Bだけじゃなくて、ダンスクラシックとか昔のソウルとかもレコード集めててよく知ってたので、バラエティに富んでたからだと思います。ヒップホップでもオールドスクールのかけ方とかいろいろあって、「ルーティーン」っていうんですけど、そういうのをいろいろなDJを聴いていろいろ勉強しましたね。そこから自分なりに工夫して自分の好きな曲を入れたり。最初はやっぱり見よう見まねです。自分たちのカルチャーじゃないですしね。その中からだんだん自分の好きなものが見えてきたっていうんでしょうか。
アジア人っていうことで、黒人とも白人とも違う音楽的感性というのもあったんじゃないかな。聴いてきたものが違ったりとか。そういう意味では、どっちでもない分、どっちのこともわかるっていうか。やっぱりニューヨークのような大都市でもまだまだ人種が分かれてるっていうのはあるんで。同じヒップホップというジャンルのなかでも人種によって盛り上がる曲とかが微妙に違ったりするんですよ。そこは、私はもともと外国人だから、いろんな人種の人が盛り上がれるツボを肌で分かっていたっていうのかな。アジア人でよかったと思いますね。
「9.11」後の選択
そんなバブルな時代は97年から2000年ぐらい、テロ直前まで続きました。9月11日、あの日私はちょうど仕事でサンフランシスコ行きの飛行機に乗ってたんですけど、離陸後1時間ぐらいしたら「着陸します」ってアナウンスが流れたんです。あれ、もう?って思ってたら、エマージェンシーだからって言われて、とりあえずセントルイスで降ろされた。でも、そこから飛行機は飛ばないっていうから、これはヤバイぞって慌ててホテル取って、そこで初めてあの映像を見ました。ショックでしたね。その後ももちろん飛行機は飛ばないから、結局アムトラックで現地入り。ニューヨークを発ってから3日後でした。帰りも1日半ぐらいかけてニューヨークに帰って来たんですが、家がワールドトレードセンターの近所だったからそのエリアに入れなくて、知り合いの家とかで暫く過ごすことになった。
社会情勢も経済も人々の気持ちも一気に変わった。会社もいっぱい潰れて、レイオフされる人がすごい出て。もちろん、パーティとかもなくなり。ほんとうに何もなくなった。そんな感じでしたね。
そんな何もかもが変わったことで、自分の人生を初めて見つめ直したっていうんでしょうか。その後、少しずつクラブが復活し始めたある日、DJをしながら、ふと思ったんです。ニューヨークっていう現場でDJを10年近くやってきたけど、来年もここでやってるのかな。そう思ったら、急に違うことがしたくなっちゃって。考えてみたら、それまでは同じ経験の積み重ねだった。そこにスタックしちゃう自分がいたことに気づいたんです。もっと違うこと、もっと自分がチャレンジできること、夢中になれることっていうのを考え始めたんです。
ニューヨーク中のクラブはもちろんのこと、マイアミやLA、アメリカのほとんどのクラブで回したし、ヨーロッパも仕事で何度も行った。そろそろ、次のチャレンジしたいなって思ったんです。人間、何かを追いかけているときの方が楽しいっていうか。ある程度いくと守りに入っちゃうじゃないですか。それより、常に上を見ている方が楽しいし、自分なりの目標を追いかけていたい。下を見ると恐いしね。そうしないと周りに惑わされたり、周りの評価とかも気になってくる。そんなこといってたら長くやっていけないですもんね。
そんな気持ちに変化が出てきた時に、たまたま日本でCDを出す話があったんです。最初は東京に1週間滞在し、2回目は2週間と滞在日数が増え、1年に1、2回のスタンスでしか日本に来てなかったのが、2回、3回と増えてきた。じゃあ、思い切って日本に拠点を移そうか、いや、でも、今ニューヨークで問題なく食えているのに、日本に戻ってうまくいかなくなったらニューヨークでの仕事もなくなっちゃう! とか、ものすごく考えましたね。1年、2年、悶々と過ごしてました。
でもまあ、イチかバチかっていうか、一生懸命やればきっといい結果も出る。そう思って、2003年、まずは東京でも部屋を借りることにしました。営業もしっかりやらないといけませんしね。おかげさまで仕事も次々と頂けるようになったんですが、そうなってくると、今度はニューヨークからたまに日本に来て仕事するというスタンスだと限界があるっていうか、ある程度腰を落ち着けないとダメだな、って思うようになってきた。日本国内のツアーもしっかりやって、ちゃんとプロモーションもしたい。日本の人たちにももっと自分を知ってもらいたいっていう気持ちが芽生えていったのも事実です。
そして、去年、東京のマンションを広い部屋に引越し、ニューヨークの方を小さくて安い部屋に引っ越し、ようやく日本とニューヨークの拠点が逆転しました。
マイノリティ・パワーの時代
そういう特殊な、ストリートなライフスタイルの人、ストリートカルチャーが好きな人だけの音楽だったのが、90年代が過ぎたら、一気にメインストリームの音楽になっていた。なんかそういうエナジーがあったんだと思いますね。アーティスト、人種の持っているパワーもそうだし、音楽の持っているパワーが時代とマッチしたっていうか。ヒップホップって音的にもポジティブですし、マイノリティを前向きなパワーにエクスチェンジするっていう部分も最初の頃はあったと思いますね。
マイノリティな立場の人って大体いじけて終わるわけですけど、それを前提にそこから表現していく、そういう部分を全部打ち壊して自分のことをアピールするわけだから、そこにこめられたメッセージってすごい前向き。他人がどう言おうが俺は最高だぜ的な(笑)。私もニューヨーク行って嫌な思いもいっぱいしたし、英語も喋れなくてみんなから「HA?」みたいな顔で見られたり、そういう悔しい思いをすることが日常的にたくさんありましたから、ヒップホップ・ミュージックにはずいぶんと助けられましたね。
「MIX」の時代
ただ、これも全世界的に共通しているような気がするんだけど、ヒップホップとかR&Bがクラブミュージックだった時代は、好きな人は自分で情報集めたりとか、本当に好きっていう人が多かったけど、今はメインストリームの音楽になった分だけ、ラジオとかテレビでかかっているものを流行ってるからそのまま聴くだけっていう受動的な音楽ファンが増えているような気がしますね。
メインストリームになった分、音楽を掘り下げなくなったっていうのかな。好きなアーティストとかがいたらもっと掘り下げて、その人が影響を受けたミュージシャンとか、プロデューサーとか、同時代の曲とかいろいろ聴いて、もっともっと音楽を好きになってほしいなって思いますね。「MIX」の意味は最大公約数じゃないんで。
プチ・バブル期に入った東京のパーティブーム
日本に拠点を移してからはぐっと仕事の幅が広がりました。CDのリリースをはじめ、自分で歌を歌ったり、曲を作ったり、他のアーティストをプロデュースしたり。ラジオとかのレギュラーもやらせて頂いてます。ニューヨークにいたときはラジオとかはスペシャルオケージョン、ゲストでDJさせてもらうっていうことはあってもレギュラーは無理でしたからね。言葉の問題があって。そういう意味では、ニューヨークでの10年はいっぱいいっぱいだったので、これからはもっと余裕を持って仕事をしたいなっていうのはありますね。
リスペクトするアーティストは、実はマドンナです。ストイックで強くてビジネスも出来て、そういう強い女性に憧れますね。10年、20年とトップでいるっていうのは半端じゃないことだと思うし、自分がそんなストイックにやりたいかって言われたら別問題なんですが、10キロ毎日走ったりも出来ないですしね(笑)。瞬間的に出せるエナジーはあっても、それをキープしていくって並大抵のことじゃない。しかも、大人になってもキュートで、精力的で、年とればとるほど素敵になる人ってなかなかいない。まだまだこれからなんでもっともっと頑張りたいですね(笑)。
[取材場所:DJ Kaori所属事務所/インタビュー・文:高野公三子]