2007.08.23
その他|OTHERS

サフィア・ミニー/safia minney インタビュー

ピープル・ツリー代表・NGOグローバル・ヴィレッジ代表

私の仕事のスタートは、13歳から

 7歳のときに、お父さんがガンで亡くなったんです。3人兄弟の一番上だったので、もし母にも何かあったら、私が下2人の面倒をみなきゃって、責任を感じていましたね。
 母はスイス人で、日本人と似ていて、父が亡くなった後もすごく我慢強く、うろたえたり、うわーっと泣いたりはしないんです。でもきっと辛いんだろうな、と思ったので、子どもながらに母を大切にしてあげたいと思っていました。お小遣いで、毎週彼女の好きなチョコレートを買ってきたりしてましたね。

 でも13歳くらいになってものすごく悪い子になって、毎晩クラブに通うようになった。今思えば申し訳ないな、と思いますけど、まあ、どこの子どもにもあるようなことかな、と思うんですけど。

 そんな13歳のときから、私は仕事を始めたんです。近所のアートセンターに、素焼きなどを売っているハンディクラフトの店があり、毎日曜日働いていました。あとは金曜日、マーケットで、私より全然年上の男の人と一緒に、ジーンズとかを売っていました。仕事をするのは大好きでしたね。自分で稼いで自分の好きなことに使う、そのときはクラブに行くためのお金を貯めるのがとても楽しかったんです。

 今ではイギリスでは13歳では仕事はできないような法律になってるんですけど、私はそれ、反対してるんです。子どもに仕事をさせる、児童労働というのはいけないと思うけど、若い頃にいい経験をするのは、大事だと思う。私も息子が14歳になって、やっぱりすごく難しい年頃ですが、テレビゲームとかをやるより、アルバイトで私がやったような経験をするほうが健康的だと思うんですよね。

インド人の名前ではプロフェッショナルな仕事の面接を受けられない現実

イギリスは階層がはっきりした国で、当時、大学には人口の5%くらいしか進学しなかったんです。私も高校卒業後17歳から出版社の仕事を始めました。

先生になろうかとか、障害を持っている人のケアをしようか、とかいろいろ考えたんですが、たまたま求人広告を見て、すごく信用のある、メジャーな雑誌の求人があったんです。面白そう、と思って履歴書を送りました。

私はインド系の父の名字を継いでいたのですが、当時は、インド人の名前だと、面接もしてもらえないんですね。履歴書だけではじかれてしまうんです。母に「名前を変えたほうがいいんじゃない」と言われて、母の名字で履歴書を出したら、面接も受けられて、入ることができた。そのころは、メディアのようなプロフェッショナルな業界は、白人しか入れませんでしたからね。テレビやラジオでも、BBCイングリッシュしかなくて、地方のアクセントは全くない。南部の、アッパーミドルクラス、というのがスタンダードだったんです。今は黒人の有名なキャスターが出てきたり、ミックスされて、イギリスもすごく面白い国になってきましたけどね。

仕事は、宣伝会社とやりとりをして、広告の原稿を受け取って、印刷会社に回して、というものでした。お昼休みには受付の仕事もカバーして、秘書と受付を毎日やって、楽しかったですよ(笑)。でも、わりと単純な作業だったので、6ヶ月くらいして、どうしようかなと思ってたら、『クリエイティブ・レビュー』 という雑誌で、マーケティング部署のアシスタントの仕事があって、そちらに移りました。そうしたら、ちょうどアメリカ人の上司が退職することになり、突然私が彼女のポジションを任されることになったんです。それで、4年間くらい、『クリエイティブ・レビュー』 のマーケティングをやりました。

そこでは最終的に、インド人とかジャマイカ人とか、いろいろな国のミックスが8人ぐらい集まって、すごく面白い部署になりましたね。特に白人じゃない人を募集しようとしたわけではなかったんですが、自然とそうなった。責任がある仕事でしたが、いい上司がいてひっぱってくれたんです。お給料が安かったから、「サフィアがやればいいじゃん」て、言われたというのもありますが(笑)

17歳の頃は、そのときの彼と一緒に住んでいましたが、お給料が安かったんで、新聞の広告を見て、家賃と食費を持つかわりに、朝と夜はメイドの仕事をする、という住み込みのアルバイトを見つけたので、年配の男性の家に居候したんです。彼は南アフリカの事業でお金持ちになった人で、ある日「2週間くらいバンコクに旅行に行くから、その間ここを出て欲しい」といわれたんです。信用されていないんだな、と思いましたし、それよりバンコクに行く目的が売春婦を買いに行くと言ったんですね。私と同じくらいの年齢の子を買いにいくんだと思うと、すごく気持ち悪くなって、それなら今晩出ます、と出て行きました。そのとき自分の価値観でそれは許せないと思ったんですね。

そのあと、同じマーケティングの部署で雑誌を6誌くらい担当するようになったらお給料が高くなったので、20歳のときに家を買いました。

アジアの旅で見つけた、経済の貧しさと、本当の豊かさ

出版社に4年いたあと辞めて、22歳のとき、2,3ヶ月バックパッキングの旅に出ました。バリ、インドネシア、シンガポール、タイ、ミャンマーなどを回りましたけど、すごくいい経験になりました。

ずっとメディアで働いてましたけど、こういうアジアの人々の元気さは伝えてこなかったな、と思って。また、経済の貧しさと、ほんとの貧しさは違う、ということを考えるきっかけにもなりましたね。ずっと安定した生活ができていたのに、企業が土地を買ってしまったために農業ができなくなり収入源がなくなってしまったり、自然の資源が伐採でなくなってしまったりとか、何が幸せなのか、何が健康な生活なのか、というのを考えるきっかけになりました。ちゃんとした教育を受けてなくても、すごく頭がよくて、技術も持っているのに、経済の力がないだけで、搾取されたり騙されたりする。経済の弱さというのが、人権問題の原因だな、と思ったんです。

イギリスに戻ってからは、自分でコンサルティング会社を始めました。オルタナティブな雑誌をどうしても普及させたくて、立ち上げたんです。女性の権利や、社会問題、白人じゃないコミュニティの新聞をプロモートしたり、マーケティングプランを考えたりしました。『アドバタイジングエイジ』 という、わりと有名な雑誌のマーケティング活動もやっていました。

週3日ペイドワークをして、残りの3日は自分の会社の仕事をして、というのを4年くらいやってました。ちょうど環境問題に一般の人が興味を持ちはじめ、面白い時期だったんですね。その前は、環境の仕事は特別の人しかやらないこと、一般の人は会社を辞めてNGOに入らないとできない、という時代だった。それが、何か援助する会員になったり、消費者としての活動を通して何かできる、というように変わってきたんです。

彼の家族は、活動家ファミリーだった!

夫のジェームズは、新聞広告に「夫募集」と広告を出して見つけた、というのは冗談で(笑)、家の部屋が空いていたんで「同居人募集」を出したら応募してきた人です。部屋は好きじゃなかったみたいなんだけど、私のことが好きで(笑)。オックスフォード出の白人の銀行員なので、最初は価値観が私と正反対の人だと思ったんです。

だから、最初は、私は「ノーサンキュー」というかんじで友達だったんだけど、「週末、実家に来ない?」と誘われて、仕事で疲れてたので、いいよ、と返事したんですね。そうしたら、イギリス北部の田舎で、普通の家で、家族が活動家ばかりで、すごく私と価値観がぴったりだったんです。それからです、「この人を愛してもいいかな」と思ったのは。バカみたいね(笑)。

彼は、大学に入る前に日本を訪ねて感銘を受けて、以来ずっと日本語を勉強していました。日本と関係のある仕事をしたい、という気持ちが強く、それで日本の銀行に就職し、日本に行くことになったんです。私が25歳くらいのときですね。そのときのサッチャー政権の政策がすごくいやだったし、ずっとオルタナティブの活動をしてきて、もう少し他のやり方ないのかなと思って、アジアの視点も見たかったので、日本に行くのもいいかな、と思ってついて来たんです。

日本語の勉強、ナミビア支援、NGO、自然と活動が広がった

日本に来て、まず日本語を勉強しました。六本木にあるフランシスコ修道会の教会がやっている、日本語学校にいったんです。そこは、ホームレスの人のためのサポートをしていたんですが、インド、イタリアの宣教師や修道士がそのために来日し、日本語を勉強していたんです。先進国の日本に、ましてやホームレスのためにインド・イタリアから来日するなんて、とものすごく衝撃を受けて、一生懸命日本語を勉強しましたね。そういう環境だったから、社会問題を話す雰囲気もあり、すごく面白かったです。

最初5ヶ月くらい、「サイマルアカデミー」で英語の先生をして、そのあと「ボディショップ」や、出版社のPHPで働きました。

そのあとNGOグローバル・ヴィレッジ を始めたんですが、動機はすごく単純でした。ボディショップから帰る途中に、すごく素敵なクラフトショップがあって、そこの人と友だちになって、ナミビアが南アフリカに支配されている、という話をしていたんです。ちょうどジェームズの兄が、ナミビアを援助する活動をしていて、ナミビアの女性と結婚することになったんですね。彼女もかつては子ども兵士だったそうです。どうやって国をちゃんと経済発展させるか、というので、ハンディクラフトに注目して、その展示会を西麻布で催すことにしたんです。それにメディアが結構関心を持ってくれて、回りにそういう人たちがいるなら、こういった活動を始められるかな、と思ってNGOを立ち上げたんです。

バブルの頃で、過剰包装がいっぱい、ごみもいっぱいで、ゴミ問題を考えるきっかけになれば、というのでパフォーマンスをしたり、粉ミルク問題を考える展示をしたり、色々な人と知り合いになって、活動が広がっていきました。

オーガニックコットンの研究からフェアトレードビジネスへ

94年に、エコ・テキスタイルのプロジェクトをはじめ、その頃からオーガニックコットンの研究を進めていきました。フェアトレード商品を開発して、カタログ通販をはじめ、フェアトレードカンパニーを設立したのが、95年のことです。

「ピープル・ツリー」 は、フェアトレード専門の、ファッションブランドです。フェアトレードは、一般の人が買い物を通し、環境問題、貧困問題に貢献することができる国際協力活動です。商品を紹介するだけじゃなくて、商品を通して、商品が作られた地域の様子を知ってもらうことにもなるんです。それは、いろんな社会問題に市民が自分の力を意識して、自分の住みやすい社会を創ることができる、ということだと思うんです。

スタートして12年。「ピープル・ツリー」 の商品は、おかげさまで日本全国の約350店舗に商品を置いてもらっています。

雑誌広告の仕事をしていたときのことを振り返ると、商品を無意味に消費するためにお金をかけていたと思うんです。頭を悩ませて一生懸命キャンペーンを考えていましたが、買う人の健康にもならないし、社会に貢献することにもならない。

消費も、いい消費と悪い消費があると思うんです。私は、収入が得られるようになってからも、ブランド品に大金を使うのはばかばかしいと思っていたし、チャリティーショップやフリーマーケットでいいものを探すのが好きだった。出版社で働いていても、ファッション雑誌はつまらなくて全然読まなかったんです。

でも、時代も少しずつ変わってきていて、地球の健康のために何かできないか、と考える人が確実に増えてきていると思いますね。

1cmの違いを説明するのに苦労します

フェアトレードの商品、というと一般的に食品がよく知られています。食品ももちろん途上国の生産者さんに貢献していますが、最終的な加工やパッケージングの大部分が、先進国でなされているものもあります。服飾だと、生地を織り、染色し、手刺繍や草木染めなど、加工工程が多く、よりたくさんの人の技術と労働が必要なんです。だから、より多くの仕事を生み出すことができるんです。

今は、自然素材が貴重なものになっているので、その点でも現地で採れる素材を多用したフェアトレード製品は注目されていますね、そして、人の労働も大事で、その人の手を使って、ちゃんと食べられるように、子どもを学校に行かせられるように、生活の糧を稼ぐことができるというのがフェアトレードのすばらしいところなんですね。

私たちが洋服づくりを始めてすごく苦労したのが、現地の人は身体のラインにフィットした服は着ないから、なぜこんなに複雑なパターンが必要なのかっていうのがなかなか伝わらなかったことです。なぜ1cmの違いが重要なのか。しゃがんで作ったり、台所の近くで作ると汚れてしまうから商品にならないよ、とか、そういうことを粘り強く伝えたんです。そういうふうに、日本の消費者のニーズが何なのか伝えるのが最初は難しかったですね。日本の消費者は世界一厳しいんです。ファッションはかっこよくないと買ってくれませんからね。フェアトレードだから買おうっていうことはないので。

私たちは日本とイギリスにでいいデザインチームがいるので、同じことを根気強く繰り返しながら、少しずつ商品開発をしています。現地の技術がなんなのか、素材はどういうものが手に入るのか、というのをチェックした上で、アイディアを考えるんですね。通常、発展途上国の生産の仕方というのは、別の国から素材を輸入して、加工だけして、また別の国に輸出するというのが主流。バングラデシュでは産業の8割がアパレルですが、コットンの国内生産は2%だけで、ほとんどの生地を、香港や台湾、中国からの輸入に頼っています。労働コストが安いから。私たちの狙いは、できるだけ多くの加工行程を現地で行うことによって、生産者さんの経済的自立を支援し、地域発展に貢献することです。

バングラデッシュでオーガニックコットン(OC)の栽培を始めているんですけど、できるだけそうやって、自然農業の活動にも力を入れたいんです。やっぱりOCの良さを証明できないと、アパレル業界からも、政府からも認められませんからね。成功したいい実例を作って、ビジネスモデルとして理解してもらえば、インドと同じようにバングラディシュでも大きなオーガニックコットンの産業が作れると思うんです。

女性が収入を得て、立場を高めていくんです

バングラデッシュの手織りは男性が中心なんですけど、うちは女性の手織り職人さんたちがいるところにもお願いしているんです。そうすることによって、女性の社会的立場を高める、ということにも貢献できます。刺繍や手編みは、ネパールやペルーなどでも女性が多いですが、子どもを育てたり、家事をしながら空いてる時間に少しずつ続けられる、ということで、女性の仕事としては収入源としてとてもいいかたちなんですよね。

グループが集まる場所を作ると、仕事だけでなく、女性問題や、ドメスティックバイオレンス、子どもの学校のこと、安全な水をどうつくるか、といったいろいろな話をしてそういった活動をする団体ができてくる。最初は物を一緒に作ることで始まることが多いんですが、逆もあるんですよ。根本的なビジネスの教育を受けながら、あるいは、識字クラスを受けながら、それプラス収入源をどうしましょう、と考える。そういった始まり方もあると思うんです。

生活の安定はそうやって生まれてくるんですよね。バングラディシュでは、300人の子どもが通う学校がフェアトレードで維持できているし、ネパールでも同じように学校の経費になっています。継続的に注文が入って来ると、お金がいつ入ってくるかわかるので、学校もさらに高校を作ることも計画できますよね。今そのネパールのハンディクラフトのグループも拡大して、学校を卒業した若い女性が、ハンディクラフトのトレーニングを受けています。多くの人に仕事を提供する中で、場所をどうするか、どうやって売っていくか、将来的に日本の市場に向かってどうやって商品化するか、とか、プランを立てるのに、パートナーシップが大切になってくるんです。

公正な価格が、生活を支えています

現地9生産者団体を約6ヶ月ごとにたずねてワークショップをしています。団体の中心となってる人たちや生産者さんが来日もするし、お客様と話しながら、市場がどうなっているか、なぜこういうことが必要か、などいろいろ見聞きしてもらい、一緒に働いている人が納得できるようにしています。そして、おつき合いのある団体とは1日に何回もメールのやりとりもしています。

今、一緒に仕事をしている生産者団体は60くらいあります。IFAT(国際フェアトレード連盟) から紹介されたところも多いですね。あとは、私たちは服飾を扱っているので、他の国のデザイナーさんとも交流があり、「ネパールのこの団体がいいですよ」と教えてもらうこともありますね。オファーの手紙もたくさんいただいていますが、新しいグループを受け入れるのも責任のあることなので、市場が大きくならない限りはどんどん増やすというわけにはいかないんです。

IFAT(国際フェアトレード連盟) のようなネットワークがあって、世界でもフェアトレードの基準がはっきりしています。今後どうやってフェアトレードを拡大できるのかなどを議論するために、4年に1回世界中から加盟団体が集まります。

フェアトレード製品の価格は、素材のコストや労働賃金、利益、運送費、関税、など出してもらった上で、生産者さんと話し合って決めています。始めからそれができる団体も少ないので、コスト計算はどうするのか、ということも含め技術指導をすることもあります。新しいグループとつきあいが始まると、1時間の労働コストがいくらなのか、というのを聞いてみて、生産効率などを含めた上で生産者さんと話し合って買取価格を決めています。
そして、日本の市場での上代を考えて、それでは売れない、となると、デザインを少し変えたり、刺繍の量を少なくしたり、とか頭をひねって考えるわけです。大変ですけど、それができてないと、フェアトレードとはいえないですよね。やっぱり公正な価格、というのが生産者さんの生活を支えているわけです。フェアトレードの仕事は、現地の他の仕事の、大体倍の賃金になるんです。そのかわり、品質や技術も高いものが求められるのです。

途上国ではまだまだ仕事が少ない、というのが現実ですね。バングラデシュでも、工場はほとんど都会にあるので、田舎のほうで仕事をするのは難しいです。みんな都会に出稼ぎに行って、子どもを置いていくということになってしまうんですが、それはあまり望ましくないですよね。バングラディシュを取材したんですが、田舎に住むと、生活コストが都会の1/3なんですよ。途上国ではよくある現実です。自分の家で家族と一緒に住めるし、すごく快適だと思うんです。若い人は、都会の工場に勤めた方が自由があるように見えるかもしれませんが、実際は厳しい条件で働いている。住む場所も非常に狭くて危なくて、不健康ですよね。

フェアトレードで、ハイファッションもできることを証明したい

私たちは今年新しい展開として、フェアトレード・ファッションを、もっとファッションにしようと考えました。フェアトレード製品は、まだダサいとか、ヒッピーっぽいと思っている人が多いと思うので、ハイファッションもできます、ということを証明したくて。『VOGUE NIPPON』の編集の方がとても「ピープル・ツリー」が好きで、協力してくださったので、4人の国際的なデザイナーさんと組んで、「People Tree for 『VOGUE』」というとても素晴らしい製品を作ることができました。今までフェアトレードの服を考えたことがない人にもアピールができたと思うんですね。

そうやって少しずつ、フェアトレード・コーヒーとかバナナと同じように、フェアトレード・ファッションも今年メインストリームに入りつつあるということで、イギリスの「TOPSHOP」23店舗で、「ピープル・ツリー」別注のコレクションを出したんです。他にも、「ティンバーランド」など、ヨーロッパ130店舗くらいに商品を出しています。「ピープル・ツリー」はイギリスにも姉妹会社をおいています。まだ赤字なんですが、取り扱っているお店が去年の倍になって、ものすごく調子いいんですよ。
日本でも、「ユナイテッドアローズ」に、「People Tree for 『VOGUE NIPPON』」をおいてもらったり、ラフォーレ原宿の「TOPSHOP」に「People Tree for UK」の別注コレクションをおいてもらったんですが、すごくいい反響でした。日本のふつうのファッションブティックが、オーガニックコットンで手織りの、手の込んだ商品を並べてくれる時期ももうすぐかな、と思います。

大量生産には負けたくないんです

ファッションに力を入れたのは、生産者さんの技術もかなりあがっているし、次の挑戦はこれかな、と思ったからです。周りの注目も上がっているし。きれいな工場で大量生産したものに、村で作るものが競争できるっていうのが、私にとってすごく大事で、本当の発展というのはこういうことだと思うんです。お金持ちの人が持っている工場で働くなんて、私もいやですよ。村で、職人として働くというのなら、想像ができる。自分が働きたくないところで作られるものは、買いたいと思わないですよね。人間らしい仕事のしかた、消費のしかたをしなくちゃいけない、と思います。

だから、負けたくないですよね、大量生産で、自然じゃないものには。この3年間は、日本とイギリスのピープル・ツリー合わせて、毎年3割ずつくらい売上が伸びています。なので生産者さんも少しずつ増えています。職人さんも、技術は持っていたんだけど、大量生産の影響で仕事がなくなっていた人がまた仕事に戻ってくるようになっています。インドでは、農業に次いで2番目に大きいのが手織り産業で、1000万人の手織り職人がいるんです。すごいでしょう。それがどんどん大量生産に押されて廃れていて、とても残念なんです。

フェアトレード商品は、生産量っが増えていってもそれほど価格は下がらないんですね。現地の労働コストは下がらないですから。こちらで作るカタログの印刷代や、まとめて輸入することによって船便のコストを安くするなどして、価格を抑えるようにしています。お金持ちしか買わない高級ブランドでなく、普通の人も買えるような価格で出したいです。

ビジネスとしては、大変(笑)。やっぱり支払い金額の50%を生産者さんに前払いしなきゃいけないし(注・生産者の生活を守るために、販売を開始する8ヶ月前に支払い金額の50%を前払いする)、運転資金が大変ですよ。ヨーロッパだったら、生産者さんへの技術支援や、フェアトレードのキャンペーン活動などに対して、国から助成金が出たりするんですけど、日本ではそういった国からの支援がないので。

日本のフェアトレードはまだこれからですね。イギリスではすごい話題性ですよ。新聞の何ページも使って、特集が組まれたりしています。日本でも中国製品の安全性の問題が出てきてるので、見直されるきっかけになるかもしれませんね。だって、ランチのサンドイッチより、Tシャツの方が安いって、やっぱりおかしい、とみんな思いはじめていると思うんです。

[取材日:2007年8月10日(金)10:30-11:45@「People Tree」自由が丘店/インタビュー・文:神谷巻尾(フリーライター)]


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