榎本さんによれば、当時、読者に人気があったのは、こんな企画だ。
「特別な才能がない人でも投稿できるような企画にこだわったのね。たとえば、『全国高校ジャンケン選手権』。パ・グ・チの3文字を組み合わせて、とにかくハガキに9文字書いて編集部に送る。これはもう、誰が優勝するか分からない(笑)。あと、『ノンセクション人気投票』も話題になった。これは、極私的だけれど自分が熱烈に好きな人を投票するコンテンスト。『ニッポーのお姉さん』という早稲田大学の近くのレコード屋のお姉さんが、一等賞に選ばれた。山口百恵やアグネス・チャンを差しおいてだよ(笑)」。
ほかにも、雑誌『an・an』のパロディで、犬好きを読者に想定した『wan・wan』や糸井重里氏が「編集長(男)」を名乗って常設のお題に読者が投稿する『ヘンタイよいこ新聞』、日常の驚いた出来事を投稿する「ビックラゲーション」、短編小説のコンテスト「エンピツ賞」などヒット企画を連発。常連投稿者の中には、後にタレントや文化人として有名になった人も少なくない。パロディ、ナンセンスな感覚が受けた時代だ。
「『ヘンタイよいこ新聞』の問の立て方は新鮮でしたね。世の中を乾かしてくれた感じがする。義理とか人情とかいう湿っぽいものから乾かしてくれた」と、しりあがりさんは言う。
「そんな『ビックリハウス』は85年に休刊します。理由はなんだったんですか?」(辛酸さん)。
「そうですね。『ビックリハウス』と並行して77年に『日本パロディ広告展(後にJPC展に)』が始まって、パロディとしては今ひとつだけど、絵がうまいという若手クリエーターを対象に、80年、『日本グラフィック展』、グラフィック以外のジャンルということで、84年に『オブジェTOKYO展』を始めました。その後、92年にそれらを統合して『UARBANART(アーバナート)』という企画になり99年まで続いたのですが、この間、85年に『ビックリハウス』は休刊する。おそらく、創刊から12年経ってマニエリスム(※ここでは「マンネリ」くらいの意)に陥っていたともいえるし、萩原さんが多摩美の教授、僕がテレビの司会をやるようになったりと2人とも忙しくなったこととか、またひょっとしたら、増田さんが『ビックリハウス』を嫌いになったのかもしれない。でも、足掛け20年に渡って若者を支援していたのは事実で、そういうムーブメントが時代とともに変わっていくのは当然なのかもしれませんね」(榎本さん)。