Who's who in NYC_002: 鈴木大器/Suzuki Daiki
2011.02.24
その他|OTHERS

Who's who in NYC_002: 鈴木大器/Suzuki Daiki

日本人がつくるアメリカ服が受ける時代。

 

 日本国内ではあまり知られていないが、実は、日本のメンズファッションが海外のジャーナリストやバイヤーなどから評価されている。その代表的な存在ともいえるブランドのひとつが、「エンジニアド・ガーメンツ」だ。ベースにあるのは古き良き時代のアメリカ。現代風にアレンジされたその独特の風合いによる新しいアメリカン・カジュアルは、今でも主に30代以上のファッション通の間で熱烈なファンが多い。

 

 興味深いのは、「Engineered Garments(エンジニアド・ガーメンツ)」は、NYで生まれ、企画からデザイン、生産までのすべてをアメリカで行っていることだろう。近年、アメリカのアパレルブランドの多くが中国や中南米などに生産拠点を移すなか、同ブランドは、あえてアメリカ国内の古い工場での伝統的な製法にこだわってきた。
 

 

 そんななか、2008年には、メンズファッション誌「GQ」と米ファッションデザイナー評議会が設立した「第1回ベスト・ニューメンズウエアデザイナー・イン・アメリカ」に同ブランドのデザイナーの鈴木大器氏がグランプリを受賞。2010年には、同ブランドのルーツでもあるセレクトショップ「NEPENTHES(ネペンテス)」をオープン。

 “MADE IN JAPAN”がある意味マーケティングのトレンドとなっている昨今、「日本人がプロデュースするMADE IN USAというひとヒネリした活動を展開する鈴木さんにNY在住のライター佐久間裕美子さんがインタビューを行った。

エンジニアドガーメンツ/NEPENTHES/ネペンテス/Engineered Garments/鈴木大器/SUZUKI/DAIKI
2010年9月のファッションウィークの時期に、「NEPENTHES(ネペンテス)」のニューヨーク店をオープンしました。事務所と同じビルなんだけど、ミッドタウンの「ガーメント(衣類)ディストリクト」と 呼ばれる、昔から問屋や工場があるエリア。ダウンタウンと違って、ショップがあるようなエリアではないので、驚いた反応も多かったけど、ほんとにうちのこ とわかってくれる人には「ネペンテスらしいね」って言われます。うちの服を好きな人は変わってるから、どこでやっても同じだろうって思ってこの場所を選び ました。


このスペースは、しばらくずっと空いていて、毎朝通りすがりに見るうちに『天井も高いし、いいなあ』って思うようになって、最初はショールームを考えたりもしたんだけど、そのうち「待てよ、店やりたいな」って。ここだったらニューヨークで、Engineered Garments(エンジニアド・ガーメンツ)の服を買ってくれている取引先ともかぶらないし、「Save the Garment District」、つまりこのエリアをもり立てたいっていう気持ちもあった。ヘルズ・キッチンっていう隣接するエリアがちょっと不良っぽいから、うちっぽいかなという気持ちもありました。

 
ここ数年、すぐそこにフリーマーケットが出るようになったんだけど、それを見て、ちょうどヘルズ・キッチンガーメント・ディストリクトの間にあるんだと思ったらぴったりだなと。基本的にはスペースが良かったし、家賃もちょうど良い具合で落ちてきたからタイミングもよかった。社長の清水さんがたまたまNYにきたときに、「お店とかどうですかね?」って言ったら、その日のうちに「やろか」って話になっちゃった。それが2009年の秋くらいの話で、重衣料が得意だからか、アウターの人気が高いからか、うちは秋冬のほうが得意だから、しばらく寝かせて準備してたんです。

 
もともと清水さんがネペンテスを始めて、僕も一緒に係るようになった当時は、店を運営するってことのほうがメインで、日本で店を増やしていきたいっていう気持ちでやってたんです。今回NYで店をやるってことも、その頃やろうとしていたことの延長。実は一度、98年にソーホーに店を開けてて「失敗」してるんですよ。2000年に閉めたから、正身3年しか続かなかった。当時は、EGというブランドもなかったし、業界の横のコネクションも何もなくて突然始めたんですが、いくらか反応もあったし、おもしろい経験ではあったけど、時代的にはとんがった靴とかアバンギャルドな感じが主流。自分たちがやってることが一番評価されない時代だったと思います。ラルフ・ローレンが好きな連中とか、それなりに評価してくれた人もいなくはなかったけど、僕が店に立った日で最高の売上が1500ドルくらいだったから、運営としてはまったくダメだったよね。

 
閉めた店には、EGの商品も多少は置いていたんだけど、まだその頃は日本向けのブランドとして作っていたから、アメリカの人は誰も知らなかったしね。閉めたときは「失敗じゃない」って言い張ってましたけど、実は完全に失敗だった(笑)。

98年にお店をやった経験も、最終的にはエンジニアド・ガーメンツというブランドの誕生につながっていくんだけど、90年 代の半ばすぎくらいから、インターネットが急に普及して、誰でも簡単に机上でアメリカの商品を探せるようになった。そもそも誰も知らないようなアメリカの グッズを足で探して、日本に持っていくということを得意としていた僕らにとって、急に商売がやりにくくなったわけです。

せっ かくアメリカの果てまで行って、いい商品見つけても、店にだした途端に、普通の人たちがインターネットで検索して直接買っちゃう、そんな時代になった。コロラドあたりまで出かけていって、食べに行った先の寿司職人に「バイヤーもやってるんです」なんて言われたりして、自分たちの職業、もう終わったなって感 じるようになりましたね。そこで、まだ誰も知らなくて、誰にもちゃちゃ入れられずに日本で売っていける商材を探さなきゃいけないってことになったとき、 だったら自分たちで作ったほうが簡単じゃないかって、止むに止まれず始めたのがエンジニアド・ガーメンツなんです。持っていく商材がなくて、当時のネペンテスで、弱かったのがパンツとシャツだったから、作ってみようって、3型ずつ作って日本に持っていったのが始まりでした。
 
僕は性格的にわりとすぐに調子に乗るタイプだから、シャツとパンツでやってるうちにだんだんジャケットも、セーターも、靴も、って少しずつ膨らんで、気がついたらけっこうな量になってた。日本では扱ってくれるお店も順調に増えてきて、そこそこ好調でしたね。
日本人がつくるアメリカ製
 
2003年 の秋頃、清水さんと展示会で立ち話してて、「なんか違うことやりたいな」っていう流れになった。いつもネペンテスの特性として、誰もやってないことを無謀 にやりたがるところがあるんだけど、そのときやってた「日本人の作るアメリカ製」を、さらに海外に売っちゃうっていうのはどう?っていう発想がでてきた。 そして、どこに行くかって話になってイタリアで催されるピッティ・ウォモに 持って行こうって考えたんです。ピッティには、バイヤー時代に買い付けのために 何度も行ったことがあったんだけど、どちらかといえば堅い雰囲気のショーが多い。もともとスーツ、ドレスシューズ、ドレスシャツ、ってドレッシーなモノが 揃った展示会なんです。清水さんも僕も、天邪鬼だから、そんな場所にうちみたいなカジュアルなものを持っていったら、おもしろいんじゃないかって思ったん です。 カジュアルなブランドなんて、ピッティ・ウォモにはまったく出てないから。

もうその年は間に合わなかったから、とりあえずはニューヨークの「コレクティブ」っていう展示会に出展して、翌年の2004年にピッティ行ったんだよね。実際に出展してみたら、初日は惨敗。ものの見事に誰も来なかったんですよ。「やっぱり無謀だったな」って素直に反省したりして。でも2日目に、まずポール・スミスで 働いている連中がやってきて、気に入ってくれた。ポール・スミスって、ちょっと何か共通するものがあるからかもしれない。彼ら がどんどん自分たちの取引先を紹介してくれて、ロンドンやアイルランドの店がやってきて買ってくれた。そうやってどんどん横のつながりができてきて、広 がっていったんだよね。
 
そうやっているうちに、2008年に「GQ」のアメリカ版ファッションデザイナー評議会(CFDA)「ベスト・ニューメンズウェア・デザイナー」に選ばれたんです。もう40代 後半だし、洋服の業界にはずっといるわけだから「おれってニューなんだ?」ってびっくりしたよ。新人なんて呼ばれていいのかなって。しかも、ニューヨーク の多くのデザイナーたちとは違うやり方でやってきたし、洋服を作っている会社ではあるけれど、いわゆる「ファッション・デザイナー」という存在ではないと 思っていた。いわゆるファッション業界とは接点も、付き合いもほとんどなかった。いろんな意味で驚きでした。
 
最初、「GQ」 の副編集長であるジム・ムーアからアポが入って、撮影用の服を借りにくるのかなと思ったけど、なんだか意味深というか、電話で「君たちにとってとても良い 話がある」っていうので、なんだろうって思ってた。実際、ジムがやってきて「まあちょっと話をしよう」と言われて、座って話をした。「今度、CDFDAと新しいイベントをやるんだけどね」って説明されて、いろんな質問を受けた。「それで、日本のブランドではないんだよね?」って。「アメリカのデザイナー」というくくりの賞だったから。
 
そのときファイナリストに選ばれたのが、ラグ&ボーンスティーブン・アランオビーディエント・サンズに うちを加えた6組。最後のプレゼンをやってほし いって連絡があったんだけど、ちょうどその頃、ファッションの世界にちょっと嫌気がさしてた。自分たちはどこか場違いだって気持ちもあったし、どうせ結果 が決まっている出来レースじゃないかって懐疑的な気持ちもあった。「賞くれるって言われてもいらないよ」みたいな。だからほとんど準備しないで行ったんで す。他のデザイナーは完璧に準備してやってきてて、帰り道、斜めに見てた自分たちがすごく申し訳ない気持ちになりました。忘れていた頃に受賞を知らせる電 話があったんです。大騒ぎになりました。
 
受賞したとき、ニューヨークの友達や知り合いには「世の中の洋服業界はまだ捨てたもんじゃない」って喜んでくれた人もいました。それ以上に、駆け出しの頃にお世話になった先輩方、日本の業界の重鎮にあたる人たちがわざわざ連絡をくれて祝福してくれたのには驚きました。

日本のいわゆるメンズの洋服の世界にいる人たちには、僕も含めて、世界のレベルを越えているという自負がいつもあったと思う。だけど正当に海外から評価を 受 けたことが今までなかった。だから、祝福されたことで、今はこういう形でやっているけれど、自分はまだ日本のインポートのお店の業界の人たちの仲間なん だ、と思ってすごくうれしかった。先輩たちが海外から、特にアメリカから評価されてこなかったなか、仲間のはしくれの僕が評価されたことを自分のことのよ うに喜んでくれたんだと思ったから。
 
実際、エンジニアド・ガーメンツがアメリカで評価された理由は、単に見てくれだけなんだと思うんです。「GQ」の賞の選考のときも、「アメリカの服作り、特に50年 代より前にまでさかのぼって、ワークウェアを見ながら育ってきた。それが日本の洋服の世界のメインの要素だった」というようなことを、説明したんだけど、 それが意味するところの本当の意味は、みんなわかってなかったと思う。結局、今目に入るものがすべてだから。でも、他のブランドと比べてちょっと毛色が違 うように見えるのかもしれないですね。
僕は青森県で育ちました。子ども時代は、VANと かアーノルド・パーマーをジャスコで買って着る、というような環境でした。ちょっとした小金で買えるブランド品みたいなものが流行ってましたね。ファッ ションというより、単なるブランド志向みたいな感じで。ところがシャツは体にぴったりしたほうがかっこいいっていう世界に生きていたのに、12歳か13歳くらいの頃、アメリカのTシャツに出会ってすべてが変わった。型崩れしないTシャツがいいと思っていたのに、洗ったらヨレヨレになるTシャツに衝撃を受けちゃったんです。

当時は、アメリカの映画をとにかくたくさん見たから、そのへんの影響もありました。「ジーパンはリーバイスなんだ、今まで履いてたビッグジョンとはちょっと違うらしい」というように、目覚めていった。雑誌でも「メイド・インUSAカタログ」みたいな特集をよくやってた。アメリカからいろんなムーブメントが盛んに輸入されてた時代だったんですね。



今思うと、日本人が映画とか見てアメリカに憧れて、美化してアメリカファッションを作り上げちゃってたところあったと思う。実際、ずっと後になるけど、アメリカに来てみて、アメリカ人全然かっこよくないじゃんって思った(笑)。でも、今だって50年代、60年 代のアメリカの日常を切り取った写真とか見ると、普通にかっこいい。その時代がかっこよかったのは、当時の人たちがファッションとして着てなかったから かっこよかったんだと思うんです。アメリカ人がファッションに気がついてやりだしたら、ポリエステルとか大量に使われるようになって、かっこ悪くなっちゃった。アメリカのおもしろいところは、ファッションでやってないときのほうがかっこいいってところ。昔の写真を見ると、鉄道の労働者が着てるワーク ウェアとか、かっこいい。メタルフレームの丸いメガネかけて、バンダナちょこっと巻いたりして。

中学、高校の頃から洋服は好きでしたけど、当時の仲間が「デザイナーになりたいから洋服の学校に進学する」って言うのを聞いて、「青森の田舎からきた連中 がデザイナーになれるわけないじゃん、ばかじゃないの?」って思ってた。自分は洋服は好きだけど、趣味にとっておいて、税理士にでもなるつもりで、大学に 行ったんです。でも一緒に上京した友だちが、洋服の学校の話をするたびにうらやましくてしょうがなかった。半年経ったらついに我慢できなくなって大学を辞 めて、バイトでお金を貯めて、翌年VANTANに入ったんです。それでも、自分がいつか洋服を作ることになるとは思わなかったですけどね。

洋服を作るようになってからも、自分のことをファッション・デザイナーというよりも、洋服屋ですって意識でずっとやってきたし、今もそれは変わっていませ ん。でも、これはアメリカ人には言わないようにしてる。一度、デザイナーですか?って言われて、違います、って言ったら、本気で受け止められて、何か違う 業務をやっている人だと思われちゃったことがある(笑)。そのへんの微妙な違いはアメリカ人にはわからないんです。

アメリカにきたのは1989年。「ネペンテス」のバイヤーとして渡米しました。もともとは当時取引のあった靴の工場が近かったからボストンに行って、そのうち仕事でニューヨークとの行き来が増えたから一度こっちに引越したんです。そのとき4年くらい住んでたんだけど、人の住むところじゃないなって思うようになって、サンフランシスコに移った。でも結局、仕事の都合で、ニューヨークと行ったり来たりがどんどん増えてきて、だったら同じかってまた戻ってきました。
 
ニューヨークの何が好きですか?って聞かれるけど、わかんないんだよね。わかんないところが好きなんじゃないかって思うよね。ニューヨークについて好きな こと、小さいことならいくらでもあげられる。人種がいっぱい集まってるところとか、食事もいいし、何でもデリバリーしてもらえるし、とにかく便利。他の都 市にいくと、ニューヨークにスポイルされている自分がよくわかる。それにいろんな意味で独特な街だと思います。夜中だろうとなんだろうと清掃車が回収に やってきて、がんがん音を立てたりする。日本から来たばかりの人は驚くんだけど、住めば都で、僕はもうまったく気にならなくなりました。


ニューヨークは東京が大都会になるずいぶん前から大都会だったわけで、すべてが老朽化してる。これだけの大都会なのに、エアコンが窓から落ちたりする事件 が起きたりする。古いものが残っているのに、そこに今作られてる新しいモノが追いついていない、そのアンバランスなところにおもしろさがあるのかもしれな い。完璧じゃないところがいいんだよね、きっと。そこが味を出している。そう思うと、洋服と一緒かもしれない。僕が作っている服と、感じがぴったりなんだ と思います。ニューヨークのちゃんとしないところ、いい加減なところが。

僕らの作る服には「味」があると 言われることがある。自分でもうまく説明できないんだけど、服作りでも「どうしてもこうじゃないといけない」とつっぱるところがあるのに、「どうでもいい や」という部分もある。たとえば、最初に作りたい服のアイディアがあって、サンプルを作る作業をするとき、自分が思ったも のどおりに作れないと許せなくて、向きになってがんばり続けて・・・。でも、それが実際サンプルになってあがってきたときに、思った通りじゃないときもも ちろんあって、そういうとき、「4分の1インチだって譲れない」っていうときもあれば、「これもありじゃない?」ってあっさり受け入れちゃうときもある。

これをどうやって決めてるのか、自分でもよくわからないんです。いい加減というか、ゆるいんでしょうね。徹底しすぎると堅いモノができてきちゃうと思うか ら。よくかっこつけて「フレキシビリティ(柔軟性)」という言葉を使ってるんだけど。頭は堅くないといけない部分もあるけれど、どっちかといえば柔らかい ほうがいい。徹底すべきところはして、それ以外の部分はゆるくてもいい。その柔硬の具合が「味」ってことなのかもしれない。不真面目なんだろうと思いま す。

 売れるモノを作ろうということよりも、自分が昔から見てきたモノで、自分が良いと思ってきたものを思い出して作っています。たとえば、最近の若い子たち は、スパンデックスのように伸びる素材でできたパンツをジーンズだと思ってるかもしれない。でも、僕のなかには、たとえばリーバイスを見て育ったから、 「ジーパンはこういうもんだ」っていう考えがある。自分の思う「ジーパン」は、買ったときに初めて洗って干すと、立っちゃうくらいごわごわで、それを無理 にでも履いて、慣らしながら自分の形にしていくところに気持よさがある。それが自分が一番最初に受けたジーパンの衝撃だった。

自分が好きだったものを「ああいう感じだったよな」と思い出しながら、そこに近づけたいという気持ちで作ってる。うまくいくときもあるし、うまくいかない ときもある。思っていたとおりの感じを実現できて、「これこれ」って満足する商品もあるし、うまくいかなくて、「全然違うじゃん、でもこれもかっこいいか な」っていうようにできていく商品もある。


 エンジニアド・ガーメンツは、 「かつて使われた型や生地を使って、文献的にも正しいやり方で作ってるブランド だ」って思っている人もいるんだけど、実はそれだけじゃない。「なんで、こんな商品があるんだ?」というモノが混じっていたりする。だから洋服のラインと しておもしろいんだと思んです。真面目な洋服は作れない。一生懸命真面目にやる人の洋服は、もちろんありだと思うけれど、僕にはつまらなく見えたりする。手の抜き方、遊び方が自分なんだと思います。遊べるところがないと、やっていておもしろくないから。
 
たとえばボタンダウンのシャツ。19世紀のシャツは、生地幅が細かったから、シャツの型を入れるのに、1枚じゃ足りなくて2枚 に分けたりしていたんですね。そのやり方を真似して、ドレスシャツのコンストラクションに、シングルニードルの一番手間がかかるやり方を採用して、ボタン に貝ボタン使って・・・というような工程で作ったものを、ぐっちゃぐちゃに洗って、ジーパンに併せて着ちゃう。ぜいたくな作りを台なしにするのが、僕が思 う、ぜいたくな遊びだったりする。まったく必要としないものをわざと大量に入れて、それを何も使わない、それが遊びなんです。そんなふうに着るんだった ら、そこまですることはないし、もっと安く作れる。でもそこにドレスシャツの行程を入れるのが馬鹿みたいでおもしろい。そういうわけのわかんない遊びが好 きなんですね。


自分では天邪鬼でへそ曲がりな性格だなと思います。いつも「人と違うこと」に意味があると思ってきた。人と違うふうに考えられることが、自分のなかで良く できたことだと思ってきた。もちろんこれまでこのやり方で正解だったこともあるし、失敗だったこともあります。結局、そうやって考える過程が好きなんです ね。普通はこうやって考えるんだろうけど、そこに絶対違うアプローチがあるだろうなって思ってしまう。

若い時は、先輩たちがかっこいいっていうものを、かっこいいなあって、言われたまま着てたし、簡単に流されてたような気がしますけど、そういうなかで少し ずつ情報を蓄積したり、店で働いたり、仕入れをするようになったり、そういうなかで自分なりの考えができてきたんでしょう。

特に店に立って接客していた頃の経験は大きいですね。店に立ちながら、この商品をどうやったらお客さんにわかってもらえるだろうかってことをいつも考え ていた。お客さんも詳しかったりするから、ありきたりの見せ方をしてもわかってもらえない。だから常に、違うものを提案しないといけないし、違うものを見 せたいと思って、「僕に何ができるか」って考えてる。きっと、その頃の経験が生きているんだろうと思います。

[取材/文:佐久間裕美子(フリーライター)]



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