高校に進学してからも新聞記者になろうと思ってたんで、新聞の切り抜きはよくしていました。新聞の切り抜きは小学4年生の頃からよくやっていた。『アクロス』でも新入社員の仕事が新聞切り抜きだったんだから笑っちゃうよね。でも、その高校時代の切り抜きにはローマクラブとか全地球カタログとかの仕事に混じって、代官山の同潤会アパートを調査している若い研究者の記事があったんです。これが望月照彦さんで、望月さんは、その頃『アクロス』にも書いてたんですよ。奇しき因縁でしょ?
大学はね、進学先を決めるにあたって、早稲田の政経だの法学部だの、慶応の経済だのって決めていくわけだけど、別に経済勉強したくないし、法律も勉強したくないし、文学も読まない。さて、と思ったときに、たまたま自分の成績なら一橋の社会学部というのがあるということを知るわけです。
これはいいじゃないかと思って、大学のしおりなんかを取り寄せてみると、社会心理学っていうのがあって、南博という日本に社会心理学を輸入した人ですけど、そういう名物教授がいて、今じゃ珍しくないけど当時テレビに出たりして、タレント教授のはしりで、そのゼミには昔山本コータローがいて、卒論は吉田拓郎だったというようなことがわかって、これはおもしろいなと思った。それで、社会学とか社会心理学をやろうと、高校2年のときに決めたんです。
で、実際、一橋の社会学部に入って、南さんは退官してたんで、そのお弟子さんのゼミに入った。そのお弟子さんが編集した社会学の入門書を高校時代に読んでいたんですよ。まさかその人のゼミに入るとは思わずにね。
入りたい大学の入りたい学部の入りたいゼミに入って、その後も、入りたかったパルコに入って、転職しようと思った三菱総研に入り、40歳で独立した。最初から40歳で会社辞めようと思ってたからね。そういう重要な職業選択はすべて思う通りにはやってきた。ただし、じっくり考えた末に選択してきたことだからね。みんなが行く会社に行くとか、そういう選択はしたことないし、自分でよく考えた結果実現出来たっていうのはよかったと思うんです。自分なりに自分にとっての専門性とか、自分に合う会社とか、自分をもっと伸ばせる会社とか、そういう選択をした上で実現出来てきているので、だから今の若者たちに対しては、「もっと自分の考えをしっかり持ちましょう」と言いたいですね。
しかしそれは「自分らしさ」とか「夢を実現する」とかそんな甘っちょろい言葉とは違うもので、現実に自分が何が出来て何が出来ないか、何がしたくて何がしたくないかとかってことを自覚するということ。したいけど出来ないってこともあるわけで。僕が新聞記者になろうと思ったけどならなかったのは、ああいう激しい取材は僕には性格的に無理だと思った。あと出版社っていう選択肢もあったけど、当時先輩で出版社に就職した人もいたけど、たとえば小学館に入っても漫画を担当するか、『週刊ポスト』に配属になって最初の取材はソープランドみたいな、そういうの聞いて、そんなのやってもしょうがないなって思って辞めた。だから、小さい学術系の出版社に就職しようかとも思ってたんですけど、そこまで地道な人間でもないんで。そういう学問の本をつくり続けるっていうのもちょっと違うなあと。
そんなとき、パルコのある本を見て、やっぱりこれだと思ったわけ。こういう本出したいなって思った。当時はパルコの広告とかポスターの全盛期ですから。すばらしい、と思ったんですね。ファッションビルに就職しようっていう気はまるでなくて。文化的なことを仕事にしたいなって思ったわけです。学問ではないし、本当の報道でもない、文化的な情報をつくる、本をつくる、1年留年して考えまして、そういうのがいちばん合っているんじゃないかと思って、それでパルコに入れて頂いた。82年のことです。ところが配属されたのは辛気臭いデータ満載の『月刊アクロス』だった(笑)。